ゆめほん雑記
2018年08月24日(金曜日)
避難体験

梅雨末期の大豪雨で西日本の広い範囲が土砂災害、水害に襲われた。気象庁は50年に一度の大雨が降っている、大災害が起きても不思議はないと警報を出した。直接住民に避難を呼びかけるのは市などの自治体だ。危険の大きい地区はもちろんわかっている。しかしそのすべてを監視、安全を確保することは不可能。住民に避難を呼びかける。しかし何年か前、ある市長の記録がある。避難指示を出せば住民は皆避難すると思っていた。しかし実際はほとんど動かなかった。サイレンを鳴らし、広報車を回しても動かなかった。あとで住民に聞けば、どうせ大したことないだろうと思っていた、という。その結果大きな被害が出てしまった。ところが隣の市では、人的被害が出なかった。住民は避難指示が出ていない地区さえも自主的に避難していたのだ。なぜだ。隣の市では防災避難訓練をマメにやっていた。このくらいの大雨だと危ないという感覚もあった。声かけあって避難したのだという。市長は避難指示は出しにくい。仮に大手の工場があって、機械を止めて避難させて、その結果大きな損害を工場に与えたと訴えられて、負ければ市長はその責任を取らされるかもしれないのだ。市長は気象や防災の専門家ではない。専門家の知恵をうまくまとめなければならない立場だ。責任は重大だ。住民はまず自助(いつ、どこへ、どうやって避難するか)考えなければならない。そして試してみることだ。ミサイル避難訓練よりはるかに意味のあることだ。


2018年07月09日(月曜日)
6月の終わりに30度ですから、7、8月は「半ぱない暑さ」ということになるのでしょうか。熱中症対策で都会はエアコンがフル回転、なのでますます外気は暑くなる。エルニーニョだかラニャーニャだか、よくわからないけれど長期予報は「平年より暑めです」とか。宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろ歩き」よりはマシ。夏が暑いのはよしとするか。それにしてもそれにしてもである。2020年夏の東京オリンピックは大丈夫なんだろうか。


2018年06月26日(火曜日)
あれほど寒さが続いたのに、突然の春です。沈丁花、梅を追い抜きそうに桜は満開、慌てて辛夷、雪柳、連翹、花蘇芳たちが咲き始め、もともと咲いていた椿も負けずと大きな花を広げている。足元には水仙、土筆、蒲公英、一気に春だ。そしてチューリップやヒヤシンスのようなたくさんの園芸植物。ヨーロッパには6月の花嫁、6月に一斉に花が咲く、という言葉があるそうですが、東京では3月に一斉に花が開いたようです。暖かくなるのは嬉しいものです。テレビではどこかで台風3号が発生したと言っていました。暖かいのが温暖化の影響でなければいいのですが。ところで植物名を漢字で表してみました。興味を感じましたか。あなたは校正に向いているかもしれないですよ。


2018年02月13日(火曜日)
戦争を望んでいないか

 シリアでは政府軍が反政府軍支配地を取り囲み封鎖しています。その中には何万人もの人たちがいわば兵糧攻めにあっています。治療を必要とする重症患者も多くいますが、医者も病院も圧倒的に足りません。このほど20人程度の重症の子供たちを搬送できることになりました。人道的措置のように聞こえますが、実は捕虜交換だそうです。つまりすでに捕まっている反政府軍兵士と交換に子供たちを解放するということです。悲惨な戦争はずっと続いています。
 70年ほど前、日本は戦争に負けました。強権的な政府がすべてを決めるという時代が終わり、民主主義、自分たちが主役になれるという時代に変わるということになりました。もう戦争はしないという国民総懺悔があって、実際戦争には直接関与はしませんでした。戦争はないんだ、そう思い込んでいました。
 さて冷静に世界史を見てみましょう。第2次世界大戦の後、すぐにインドネシア独立戦争、インドシナ戦争、インド・パキスタン戦争、チベット紛争、朝鮮戦争、ハンガリー動乱、ラオス、コンゴ、ベトナム戦争、まだまだ延々と続いています。アフガニスタン、イラン・イラク、湾岸戦争、中東戦争。戦争は続いていました。
 戦争を避けるにはどうしたらよいのか。日本の約70年の平和は奇跡だったのかもしれません。どうしたら保てたのか。戦争の原因は経済的な権益の取り合いです。単純な言い方をすれば、お金持ちがさらに良い条件を奪うために戦うのです。独立だ、正義だ、というもっともらしい理由に惑わされてはいけないでしょう。戦争があるかもしれないというと景気がよくなります。軍需産業が活気づき、経済が活気づくからです。戦争が終わると不景気になります。過剰投資が顕在化するからです。どうしたら平和でいられるのか。じっくり考える必要があるようです。



2017年12月06日(水曜日)
サラダ記念日

 先日電車に乗ってつり革につかまっていたら、目の前の女性が立ち上がってなにやら耳元に声をかけてきた。何を話しているのかはわからなかったが、その手つきからどうやら席を讓るからお掛けください、ということのようでした。
何も考えていなかった私は、とんでもない、すぐ降りるしとお断りした。
 女性は立ち上がって脇によけている。そうか確かに今日は疲れて私はヨレヨレだ。ひどい状態と同情されたのかもしれなかった。これは初めての体験だった。ショックだが、少しありがたい気もする。
 私はその女性にとても語りたい衝動に駆られた。「あなたが席を譲ると言ったから今日は優先席記念日です」



2017年10月17日(火曜日)
日野原先生のこと

105歳で亡くなった日野原先生のお話です。
 医師になりたてのころ、アシスタントのナースが菌体を飲み込んでしまい、気がついた時には手の施しようがなかったこと。当時はスポイトなどなく、ピペットを使って菌体を吸い込んで培養調整していたのです。
 生の菌を人体に注射して感染させるという実験を満州の石井部隊が戦争中にやりました。その伝染病の潜伏期間は何日という実験をやっていました。京大の仲間もいました。
 日比谷の劇場で大きな風船を作って、中にショウジョウバエを入れる。ばい菌、腸チフス菌、コレラ菌と共に入れて、千葉の海岸からアメリカに送った。
 2001年9月11日の同時多発テロを見て、我々がやったことを、彼らがやっているということを強く感じたのです。
 聖路加国際病院に就職しました。空襲下で患者が溢れ、病室もチャペルもロビーもいっぱいでした。ひどい火傷で薬もなく死んで行きました。病院を新しくする時に、チャペルもラウンジもロビーも、どこでも酸素や吸引のパイプを用意しました。これが地下鉄サリンの事件が起きた時に役に立ちました。これはスイスやスウェーデンから学んだことです。平生から用意をしているのです。
 ある時患者さんが手術後「先生、本当のことを言ってくれますか。私の命について本当を知りたい。癌でしょう。たった30分で手術が終わったなんて」私は白状せざるを得なくなって「癌でした」と言いました。すると患者さんは涙を流して喜びました。「できるだけ治療はしてください。ですが私は死の準備をします」と言いました。このことが癌告知の考えに大きな影響を与えました。何十年も前のことです。



2017年08月15日(火曜日)
戦争はいけない

今まであまり声を上げなかった人たちが、自らの体験や思いを伝えようとしています。新聞、テレビ、雑誌、あらゆる媒体でかつての戦争体験、悲惨な戦後の暮らしについて語っています。今言わなければ、そうした思いが彼らを突き動かしています。
 日本が戦争を起こすのではないか、あるいは巻き込まれるのではないか。日本人だけで310万人も死んだというのに、また戦争をするのか。そんな不安が駆り立てるのです。
 軍拡を目指す安倍政権、核をいつでも持てるように原発を確保する政権、それを支える国会議員の多くがメンバーの日本会議。反対するあのような連中は共謀罪。そして北朝鮮との緊張を煽る政権。日本なのに米軍の勝手気ままを抑えられない政権。
 いろいろな不安が、高齢者を不安にさせる。戦争はいけない。どんな正義があってもいけない。



2017年08月15日(火曜日)
日野原先生のこと

105歳で亡くなった日野原先生。先生の講演を本にしたことがあります。ごく一部をご紹介します。
 医師になりたてのころ、アシスタントのナースが菌体を飲み込んでしまい、気がついた時には手の施しようがなかったこと。当時はスポイトなどなく、ピペットを使って菌体を吸い込んで培養調整していたのです。
 生の菌を人体に注射して感染させるという実験を満州の石井部隊が戦争中にやりました。その伝染病の潜伏期間は何日という実験をやっていました。京大の仲間もいました。
 日比谷の劇場で大きな風船を作って、中にショウジョウバエを入れる。ばい菌、腸チフス菌、コレラ菌と共に入れて、千葉の海岸からアメリカに送った。
 2001年9月11日の同時多発テロを見て、我々がやったことを、彼らがやっているということを強く感じたのです。
 聖路加国際病院に就職しました。空襲下で患者が溢れ、病室もチャペルもロビーもいっぱいでした。ひどい火傷で薬もなく死んで行きました。病院を新しくする時に、チャペルもラウンジもロビーも、どこでも酸素や吸引のパイプを用意しました。これが地下鉄サリンの事件が起きた時に役に立ちました。これはスイスやスウェーデンから学んだことです。平生から用意をしているのです。
 ある時患者さんが手術後「先生、本当のことを言ってくれますか。私の命について本当を知りたい。癌でしょう。たった30分で手術が終わったなんて」私は白状せざるを得なくなって「癌でした」と言いました。すると患者さんは涙を流して喜びました。「できるだけ治療はしてください。ですが私は死の準備をします」と言いました。このことが癌告知の考えに大きな影響を与えました。何十年も前のことです。



2017年05月18日(木曜日)
共謀罪成立

「改造」という雑誌がありました。大正8年(1919)創刊、戦時中は弾圧を受けて廃刊、戦後復刊したが昭和30年に廃刊になった総合雑誌です。幸田露伴、谷崎潤一郎、志賀直哉らの小説連載や芥川龍之介の文学論争、社会問題や労働問題の記事を多く掲載しました。改造社はアインシュタインやバートランド・ラッセルを日本に招くなど大いに人気のあった雑誌でした。
 昭和17年(1942)掲載の論文が共産主義的であるとして、発売禁止、著者は逮捕されました。捜査中に著者を中心とした改造や中央公論の編集者たちの集合写真(出版記念会)が発見され、これが日本共産党の再結成の謀議をしているものだとされました。
 関係者60人余りが検挙拷問を受け、4人が獄死した。治安維持法違反で起訴され、有罪となった。敗戦の確定した玉音放送の直後の判決でした。米軍の追及を恐れ、捜査資料等はすべて焼却されたという。
 戦後復刊したが、やがて労働争議で再び廃刊。編集者たちはそれぞれ別の道を模索しました。ある人たちは編集プロダクションを作りました。編集や校正をしてなんとか生きていこう。
 運命のいたずらなのか、実は私が本格的に校正を始めたのは、彼らが作った会社でした。当時の社長はあまりこのことを話しませんでしたが、ある時ぽつりぽつりと話してくれました。何も知らなかった私は大いに焦ったものでした。
 写真1枚で共謀罪成立、怖い話です。



2017年05月12日(金曜日)
明治憲法

明治憲法の下で行われた無数の戦争。こんな時代に戻りたいという人たちがいる。
戦後70年平和憲法の下で、直接の戦争はしなかった。平和のありがたみは身にしみてわかっているはずなのに、明治憲法の時代に戻りたいと言う人がいる。

大金持ちと軍人が政権の中枢にいれば、考えることは一つ。戦争の危機を煽り、軍備を増やす。見かけ上、好景気になる。そして利益を上げることだ。平和になると莫大な借金が残り、不景気が襲う。いつも戦争、あるいは戦争の危険が必要だ。
振り返ってみよう。

明治憲法(大日本帝国憲法)は、1889年(明治22)2月11日に公布、翌年11月29日に施行され、1947年(昭和22)5月3日に日本国憲法が施行されるまで続いた。この57年間は激動の時代であった。
1894年(明治27)8月から翌年にかけて日本と清国の間で戦われた日清戦争。朝鮮の権益をねらう日本と旧宗主国清が朝鮮半島の混乱を機に出兵、激突した。日本は24万の兵を動員して勝利したが、ロシア・ドイツ・フランスの圧力により遼東半島を返還した。
日露戦争、1904年(明治37)2月から翌年にかけて,満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。日本軍は旅順、奉天、日本海海戦で勝利を収めたが,軍事的財政的に限界に達し,一方、ロシアでは労働者革命の激化などで戦争終結を望み講和条約を締結した。与謝野晶子の「君死にたもうなかれ」はこの時の弟の出兵を嘆いたもの。
やがて軍は主導権を握ろうとしていく。1932年(昭和7)5月15日 五・一五事件。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
二・二六事件は、1936年(昭和11)2月26日から29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。
やがてその軍部の独走が始まる。日中戦争は1937年(昭和12)7月7日,自作自演の盧溝橋事件にはじまり,1945年8月15日,日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国の戦争。
軍部は戦線を拡大して主要都市鉄道沿線を占領,宣戦布告のないまま,全面戦争に発展。中国は37年9月の第二次国共合作による抗日民族統一戦線が各地で抗日戦を広げた。

1941年12月に日本はガソリン禁輸などの経済制裁に耐えきれずアメリカを攻撃、太平洋戦争に突入した。すでに東南アジア、南太平洋に侵攻、補給線確保もままならない日本軍は、超大国アメリカをはじめとする連合国に撃破されて行った。
そして沖繩壊滅、原爆投下。日本のおそらく全ての都市が空襲や艦砲射撃で焦土と化した。日本軍はすでにどこにもなかった。

働き手は戦死、家は焼かれ、食べるものもない。こんな時代に戻ってはいけない。



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