当時、桜橋はもちろんなかった。この隅田川には火から逃れようとした人々の遺体が無数にあったという。

あの恐ろしい、
大正12年9月1日
午前11時58分。

関東大震災
解説
被害
昭和58年(1983年)9月

植木千代談

写真:k.yoshino
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1923年(大正12年)関東大地震写真:国立科学博物館地震資料室

関東大震災の惨禍(大正むさしあぶみと震災絵はがきに見る惨禍)


ちょうど60年前です。
私は十五歳でした。私のおりました所は、本所小梅瓦町という所でした。浅草山ノ宿(やまのしゅく)(いまの花川戸)におばがおり、(わずら)っていたものですから、手伝いに行っておりました。
「今日はついたちだから、うちへ帰るように」というので、枕橋の渡しを渡って帰ってまいりました。枕橋の渡しというのは、いまの隅田公園で、水戸さまのお屋敷のあった所なのです。枕橋の渡しの次が竹屋の渡しとなっていたのです。私の母はお産して日の浅いころでした。 makurabashi.jpg(19508 byte)
今日は二百十日(にひゃくとおか)、なにごともなければ?
ちょうどにわか雨があがり、中山の八百屋さん(よく野菜を背負ってくる女の八百屋さんがありますね、あの八百屋さん)が雨宿りしていたのです。「今日は二百十日で、無事に終わればいいね」といって帰っていきました。
私は洗濯物をたらいに入れて、少し早いけれど食べてしまおうと、お昼を済ませてしまったのです。先ほどつけた洗濯物を洗おうと座った途端、ゴーツと異様な音がして、揺れ始めたのです。
驚いて母のところへ。母は大きな声で「お千代、地震だから早くこっちへ」と箪笥(たんす)の前へ。
《箪笥の前にいれば、つぶれても箪笥と屋根の前があくから大丈夫、洗濯物でもなんでも詰めておくんだよ》と母はふだんおばあさんからいわれていました。おばあさんは安政の地震()っている人なのです。
母は生まれてまもない赤ん坊を抱き、ますます大きくなる地震に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えておりましたが、もう運を天に任せるしかないと、赤ん坊をしっかり抱き、静まるのを待っていました。ところが静まるどころか、ますます激しく、物はどんどん落ちてくる。壁は落ちる。母の顔はお岩さんのようになってしまいました。額に大きなあせもの寄りができていたのです。そこに壁泥をかぶったもので、まるでお岩さんのようになってしまいました。
ゴーゴーとものすごい音とともに揺れは激しくなるばかり。そのうち家がつぶれたのです。母屋(おもや)とひさしの間が口を開けて、空が見えたのです。そこから庭へはい出しました。
私は大声で「ゆうちゃん! けんちゃん!」と呼びました。弟二人はお隣へ遊びに行っていたのです。お隣もつぶれ、おばさんは引き窓から出てきて、弟二人を引っ張りだしてくれました(引き窓というのは、太い棕櫚縄(シュロなわ)が付いていて、それを引いて開ける窓です。ガラスも何も入っていないので雨が降ると大急ぎで閉めるのです)。
弟たちは、母を見て急に大声で泣き出しました。大揺れはまだまだ止まりません。母は「赤ん坊の乳が……」といって、つぶれた家へ入っていきました。転がっていた鉄瓶(てつびん)のふたで箪笥の引き出しをこじ開け、胴巻に入れてあった大事なものと小遣いを少し持ち出してきたのです。その間、近所の人は「植木さん、つぶれちゃうよ、死んじゃうよ」と大声でどなっていたのです。私は赤ん坊を抱き、弟二人を……二人がかじりついていたのです。
父が見つからない
あちこちで水道管が割れて、噴水のようでした。少し間をおいては大きく揺れるのです。父はどうしたかと、私は会社へ行きました。
水門橋(すいもんばし)を渡り、業平橋(なりひらばし)、次の橋と工場の並んでいる川ふちを通るのです。今と違い、製品は川を利用して船で運んでいました。工場から工場の塀が続いて、いまにも倒れてくるかと思うようでした。川には運搬の船が何艘もいました。船の人が「危ないからこっちへ」と船の中へ引きずり込んでくれました。「大揺れのおさまるまで待っているんだよ」と押さえていてくれたのです。sumidagawa.jpg(12186 byte)
自転車会社、氷会社と続いていました。氷会社の製品は滑り台のように船に入るのです。自転車工場からは、もうすでに怪我をした人、まるで死んでいるような人、女工さんを隣の船へ戸板で運んでいるのです。恐ろしいも何も夢中でした。
船から上げてもらい会社へ行きました。会社に守衛さんはいたのですが、「父は?」と聞くと、「誰がどこやらわからない。前の墓地へ行って捜してごらん」といわれ、捜しましたが、皆、わめきあっているだけでわからず、あきらめて母のところへ帰りました。
火事が始まった
近所の人たちも一か所に集まって、大きな揺れのくるたびにおびえているばかり。そのうち《火事が始まった!》と騒ぎ出しました。火は……南の方から温かい風が吹いてくるのです。
前の風呂屋の煙突が倒れてきました。早く逃げなくてはだめだ。消火器がつぶれた屋根の下に見えているのですが、どうしようもない。家族五人、小梅のおばのところへ行こうと大通りへ出ました。道路が地割れしているのです。私に草履(ぞうり)をくださった方がいました。裸足だったのです。
おばの家はつぶれてはいませんでした。ですが、とにかく早く逃げなくてはここも危ないと、大学のお兄さんは本を心張り棒に通し、おばは風呂敷包みひとつ持ち、亀井さまのお屋敷へ行きました。もう大勢の人が避難してきているのです。ここなら大丈夫、という間もなく池のふちの小屋に飛び火して燃え始めたのです。大勢いたのでこれはすぐに消えました。まだ太陽はものすごい色をして照っているのです。
ようやく父が来ました。誰かが「植木さんは小梅のおばさんのところへ行った」と教えてくれたとのことです。父は目に火の粉が入ってようやく歩いてきたら、曳舟(ひきふね)までくるとお医者さんが出ていて手当てをしてくださったとのことです。父が来るころには、私の家の辺りは一面火に囲まれていたとのことです。
昔はお昼にドンが鳴りましたが、このときドンドンドンと大砲のような音が続いて聞こえたのです。誰かが「あれは雷を呼び、雨を降らせるために撃っているんだ」といいました。お屋敷の向こう側に火が回ってきました。「荷物を捨てて早く逃げろ!」という声に、おばは荷物を池に投げ込みました。
出口は混乱しているのです。いとこの下駄(げた)に火の粉が落ちて、焦げてきたのです。ようやく逃れて、曳舟の川づたいに逃げる。
夜になって……一面の火の海!
夜になったのです。大きな石鹸工場で夜を明かすことになりました。私たちが六人、おばの家が七人。工場の中はもう大勢の人です。しかたなく入り口を陣取ったのです。ござを持ってきてくれた人、乾し飯(ほしいい)を持ってきてくれた人、お櫃(おひつ)に御飯の入っているのを持ってきてくれた方がいたのです その御飯は()えていたのです。おばが「ご飯のすえたのはあたらないから食べろ」というのです。弟が「食べない」といったら、「死んでもいいのか」と叱られました。その子はパンの好きな子でした(弟はその後、戦死しております)。
私がいつも遊びに行っていた尼寺(あまでら)庵主(あんじゅ)さんはお厨子(ずし)を背負って逃げてきました。夜が更けていくにつれて、一面の火の海……。真っ赤に炊けたトタンがべらべらと飛んでくるのです。
夜が明けてきました。父は四ツ木のお友だちのところへ行こうとまた歩き出しました。途中、「乳飲み子のいる人にはおみおつけを」と母親にくださる方がおりました。人はところどころ家を避け、藤棚の下などに集まっていました。"父娘二人"といっていましたが、"父が見つからない"といって、泣きながら捜している方もいたのです。私たちは家族揃っていて良かったと思いました。
「津波が来る、津波が来る、津波だ-つ」
二日目の夕方近く四ツ木へ着きました。そこは鍛冶屋(かじや)さんなのです。鍛冶屋さんの仕事場に泊めてもらうことになったのです。
《朝鮮人が騒ぎ出した》というのです。"女子供は連れて行かれる"と噂が飛んだのです。
「女たちは男の姿をしろ」というので、おしめを裂いてかぶり、男たちは「見張りをするから、赤ん坊を泣かせるな」というのです。赤ん坊は乳がないので、泣くのです。泣くと人がいるのに気づかれるからと、一同声も出せませんでした。
どこか農家の馬が綱を切って暴れ出したというのです。そのうち、「津波が来る、津波が来る、津波だ-つ」という声が聞こえるのです。「みんな線路へ逃げろ、線路へだ-つ」という声が聞こえるのです。京成の線路へ逃げたのです。男たちはバンドをはずし、線路に通しました。流れるときは一緒にと、みんな手を放さないようにと。もうおしまいかと思いました。そばのお寺でドンドン太鼓を打ち始めたのです。水が来る知らせかと思いました。いよいよだめかと思っていました。
明るくなってきました。夜が明けたのです。津波が来る、津波が来るといったのは、朝鮮人のデマで、もう水は来ない、安心しろというのです。国府台(こうのだい)の兵隊さんが来たというのです。「さあ、この先、どうしよう」、「西新井の親戚へ行こう」、そこは母のいとこです。おばは「一緒に連れていってくれ」というのですが、「大勢になってしまうから、おばたちは群馬の親戚へ行くように」と別れました。
朝鮮人射殺を目撃
途中、乳が出ないので、ビスケットを溶かして赤ん坊に飲ませました。
四ツ木の土手にさしかかったとき、バンパンと鉄砲の音がしたのです。すぐ前で、撃たれて河原へ落ちていった人がいました。父が「朝鮮人だ!」といいました。土手にはほかにもまだ撃たれたらしく、おなかが出ていて(はえ)がたかっていた人がいたのです。恐る恐る通り越して、西新井橋へ来て、何台かのタンク(戦車)の通り過ぎるのを待って、西新井の親戚へ行ったのです。
西新井の家では、誰か来るのではないかと街道まで出て、見ていたところへ私たちが行ったのです。「よく来られた」といって迎えてくれました。それは三日日の午後でした。余震が続くので、よしずの仮家で、蚊帳(かや)をつり、一同寝かしてもらいました。まだまだ余震が続いています。
朝鮮人が騒ぐので、彼らが西新井橋から入れないようにと、男たちは毎晩警戒に出たのです。よしずの家で幾日か過ごしました。もう大丈夫だろうと家に入りました。毎日井戸には菰(こも)を掛けて寝たのです。それは、"朝鮮人が毒を入れにくる"という噂のためでした。つるべ井戸でした。朝起きると井戸の水を猫に飲ませ、それから御飯の支度をしたのです。それは流言飛語(りゅうげんひご)だったということでした。
赤ん坊が死んだ
父が焼け跡へ行くといって大八車を借り、私は裸足足袋(はだしたび)で本所の焼け跡へ行きました。南千住のガードまで来ると、あの三日三晩燃え続けた火は、ここで止まっているのです。観音さまが見えるのです。
焼け跡では野天ですいとんなどを売っていました。仲見世では<大増>が野天の店を出していました。たしかライスカレーを売っていたのだと思います。
私の家の焼け跡に着き、避難先の立て札をして、何か焼け残りがあるか、刀の焼け残りでも出るかと捜しましたが、何もなく、鉄瓶、箪笥の(かん)まで、まだ火の気のあるうちに拾って歩いていた人がいるというのです。瀬戸物などは重なったまま溶けて、壁の下になっていました。結局、焼けた漬物石を載せて帰ってきたのです。
連れてきた赤ん坊は腸をこわして亡くなりました。そのころ、尾竹(おたけ)の渡しをわたり、日暮里(にっぽり)の火葬場へ行くのです。一人減ってしまいました。
親と離れ、新宿のおじのところへ
父の妹が新宿の鉄道官舎にいたので、おばあさんはそこへ行っていたのです。一緒にいたら、逃げるのに難儀をしたと思います。私はおばあさんの世話をしながら、家の手伝いをすることにして、新宿へ行きました。
十五夜も過ぎ、十三夜が来ました。西新井の家では、「十五夜はうちでやったんだから十三夜にはぜひ帰ってこい」というのです。実は一日も早く西新井へ帰りたかったのです。おばは身内ですからいいのですが、おじはやかましく、お米が早く無くなることから食事のことまでいわれるのです。
新宿の町内で"焼け出され"を調べ、配給物をくださいました。おばあさん一人分です。
配給品として真っ白い毛布をいただきました。私には横文字でわかりませんでしたが、フランスと記してあるといっていました。外国からの慰問品らしいのです。「うちに世話になっているからこそ、いいものをいただけるんだ。これは私がもらう」といって、せっかく年寄りにくださったものを渡してくれませんでした。
食事のことやらお菓子にいたるまで「お前は、ここのうちに世話になっているんだから」といわれるのです。朝早く起き一生懸命働いたのです。なにごとも感じやすい年頃でした。寝ているおばあさんには何も言えず、小遣いも無く、帰る家も無く、ふらふらと考えながら歩いていました。
「バカヤローツ!」とどなられ、初めて気がついていたのです。もう少しで京王電車に引きずり込まれるところでした。
おばには、おじには内緒で、着物やら下駄やらいろいろ買ってもらったことを感謝しています。さぞ間に挟まって大変だったろうと思います。
自分たちでバラックを建てる
母がやっと迎えに来てくれました。西新井の家にもそう世話になってもいられず、会社の預金が少し下りましたので、バラックを建てることになりました。浅草のおじは大工なのです。浅草は二日目に焼けたのです。東京中焼け野原のこととて、うちにばかり来てもらうわけにもいきません。おじのところは渋川から手伝いを呼んで、目の回るようだというのです。やっと骨組みだけつくってもらい、あとは西新井のおじさんと父……。父は会社の跡片付けで、一日おきの勤めでした。ようやく素人で出来上がりました。
おばあさんを呼ぶことになったのです。浅草駅、今の業平橋駅です。東武線始発駅でした。駅へ曲がる角に(源ベエ志る古)という河童の看板の出たお店がありました(何かのお話の中に「わたしゃ葛西の源兵衛掘、源兵衛の隣の河童でござる」という文句がありますね)。そこのお店でひと休みして、浅草駅から西新井駅へ、60年前は汽車でした。西新井には人力車がありました。おばあさんを人力車に乗せてバラックまで----。おばあさんは「狐につままれているのではないか」というのです。それは小さな家、差し掛けの台所、床は西新井のおじが藁で編んでくれた畳の上にござを敷いてあるのです。
焼け出されてから毎日役場へ配給をいただきに行きました。お米、衣類、慰問袋、その他いろいろいただきました。御恩賜金金12円を頂戴しました。お給料をいただくたびに着物を買いました。だんだん冬も近づき、本当に「一夜乞食」です。それまではいただいたものを直して着ていました。布団側のような着物でした。
台所用具は西新井の家からもらい、そのうち布団ができ、借りていた布団はお返しすることができました。父が箪笥、茶箪笥、針箱を買ってきました。桐の箪笥が9円50銭、茶箪笥が3円90銭、文庫が1円70銭、針箱が1円30銭でした。バラックながら家らしくなりました。
罪のない人が殺された
話が戻りますが、観音さまは焼けませんでした。これは聞いた話ですが、子供をおぶった朝鮮の女の人が、手榴弾を本堂に向かって投げたというのです。その弾が跳ね返って、その女の人は死んだというのです。日本人が朝鮮人を使って、やらせたのではないかとの噂でした。また新聞配達をしていた人も、首を出しただけで撃たれたとの話です。罪のない人まで犠牲にしてしまって、かわいそうです。そのころは『萬朝報』が配達されていました。ほかの新聞は二、三日遅れて来るのです。地震にかこつけて騒ぐ人たちがいるとは、なんと情けないことと思います。
骨を升で量る
母の父は今の震災記念堂付近で亡くなっているらしいのです。被服廠(ひふくしょう)では死人を集めて、油をかけて焼いたそうです。近くの人の話によると、夜になると「水くれ、水くれ」という声がするので、水を置いてくると、朝になると無くなっているというのです。ireido1.jpg(41740 byte)
積んである骨が崩れる音、それが「水くれ、水くれ」と聞こえるのだというのです。またお水が無くなるのは、地面が焼けているので蒸発してしまうのだというのです。
あとでお骨を渡すというので、親戚の者がもらいに行きました。一人分として升で量ってくれたとのことです。
ああ、恐ろしい大震災。祖母の話によれば「干支ひとまわりするとき、天地がひっくりかえるようなことが起きる」。今年で60年、大震災による死者は有縁無縁あわせて総数15万8000人のうち、氏名判明して登録してあるものは3万8825人とありました。東京の死者は6万8215人、負傷者が4万2022人、行方不明者が3万9304人。つぶれた家が2万179戸、半壊3万4632戸、焼けた家が37万7907戸だそうです。
墨田区横網・震災記念堂に戦災殉難者とともに毎年慰霊大法要が行われています。先日60回の法要に参加致しました。高松宮さまがお見えになり、今年は寛永寺さまの御供養で、僧侶方30名ほどでした。偉い方がたの御挨拶ののち、寛永寺山主代理の方の法話を聞いているうちに「水くれ、水くれ」という声が聞こえてくるような気がしました。kane.jpg(49299 byte)
当時、相生署(現・本所警察署)の署長さんは、「被服廠(ひふくしょう)、ここなら大丈夫」と申し、「決して荷物を持ち込んではならない」と申したそうですが、つぎつぎと荷物を持ち込まれ、大惨事になりました。署長さんは、申し訳ないと切腹なさったのです。今も献花が絶えない。(21749 byte)
終わりに臨みまして、亡くなられた方がたの御冥福をお祈り致します。
水くれと声のくるよな震災忌    千代
昭和58年(1983年)9月
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  僧侶の派遣は明確なお布施の「はちす会」