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資料提供 お釈迦さまに帰ろう 照智一生

仏教の慈悲

アッガマハパンディッタ

慈悲は今日世界が最も必要としているもの、実にかつてないほどに必要としているものです。ご存知のように、世界には今充分な物質とお金があって、たいへん優れた知識人、とても賢く明晰な作家、哲学者、心理学者、科学者、また宗教的な人々、法律家、道徳家、宗教家などがいます。これらすべての才気ある人々がいるにもかかわらず、世界には真の平和と幸福はありません。これは何かが欠けていることを示しています。

それがメッタ、これはパーリ語で、英語では「愛」と訳されているものなのです。「愛」という言葉を使う時、この言葉の解釈には様々な見解があり、みな別々のことを意味しているかもしれません。というのは、愛という言葉は漠然と使われ、ある時には誤用され乱用されているからです。それで私達はパーリ語の「メッタ」を慈悲 − 通常の、肉感的な、感情的な、感傷的な愛ではない − を意味するものとして使っています。ご存知のように「愛」という言葉は、異なる宗教を主張する人達の考え次第で、英語では色々に定義されています。

たとえば、最近発行された「愛」と題する小冊子を閲読のために貰いましたので、それについて述べてみたいと思います。この本について特に何か議論することは致しません。ただ「愛」の定義がどれだけメッタからかけ離れることがあり得るか、ということを示したいと思います。この本の著者は、ある有神論の信仰を持つ非常に尊敬されている先生です。彼のメッタの定義によれば、そして彼はパーリ語を使っているのですが、「愛は神である。愛は神のあらゆる創造物に顕現している。人間がその最たるものである」。

この本から動物に対する「愛」について少し読んでみましょう。

「人は神に仕えるために活力、強さ、生殖を必要とします。 ......自分自身と他人を保護し、世界を上手くコントロールする。 ......強く活力に満ちているために人は栄養のある物を食べなくてはならない。そのために神は人に牛とか駱駝を殺して食べるように命令したのだ。野生動物を殺すのは許されていない。 ......もしそうしたらそのうちに自分自身野蛮になってしまうだろう。家畜の肉を人が食べることによって、これらの動物の善良さは人の魂と混ざり合い、よって間接的に天国へ行けるのだ。これは帰するところ人によってなされた善行である。− 人が動物に対して示す慈悲の行為である。これは人生における残酷さではない」。

著者への当然の尊敬を払いながら、私はこの一節を比較のために読みました。彼は、私達にとってはむしろ奇妙な論理とものの見方をもって、メッタを「愛」と同等なものとしています。

仏教徒はメッタをどう考えているのでしょうか。メッタは現代の翻訳家によって英語では、「寛容な心を持つこと、慈愛、他人に愛の気持ちを送ること」と訳されていますが、仏陀の言葉ではメッタは遥かに広い意味合い、もっと広範な含みがあるのです。それは慈愛や非暴力(アヒンサー)、同情よりももっと多くを意味しています。ここである点に言及したいと思います。キリスト教の聖書によれば、「善意」とはたいへん良いということになっています。幼児キリストが生まれた時に天使達が与えた善き知らせを覚えていることと思います。天使達は、と彼等は言います、世界に善き知らせを与えて言いました、「地の善き人々に平安あれ」と。この知らせをよく見てみると、天使達が平安あれと言ったのは善き人々だけにであって、すべての人々にではないということが分かります。それが知らせなのです。

仏教ではメッタが強調されてきました。それは善意よりももっと深いものです。非暴力もまたとても素晴らしい原理ですが、それは否定的な側面です。この慈悲というのは、仏陀の教えによれば二つの側面を持っています。一つは否定的な側面、つまりアビダンマの中でアドサ(親睦)と説明されているものです。それはメッタを説明するものですが、否定的な面、「憎しみと敵意がないこと」を意味しています。憎しみがないことは素晴らしいことですが、その肯定的な側面、つまり慈愛が強調されなくては充分ではありません。悪を行わないことはとても良いことですが、それは単に否定的な側面であって、善を行うということが肯定的な側面なのです。メッタにもこの肯定的な側面があります。

愛とは何でしょうか。オックスフォード辞典にもその定義があります。それによれば、愛とは「暖かい情愛、執着、愛情深い献身」などを意味しています。これらが愛の同義語なのです。それらはみな感傷的な、世俗的な愛情を示しています。それゆえ、メッタを充分に表現できる英語の言葉はないのです。メッタは通常の愛情、暖かな情愛を遥かに越えたものです。パーリ語のメッタは字義的には「友情」を意味していて、所有しようという欲望がなく、人を助けたいと望み、人類の繁栄と幸福のために自己の利益を犠牲にしようとする愛を意味しています。この愛には選択や除外はありません。もし少数の仲の良い友達を選び不愉快な人達を除外するとしたら、あなたはこのメッタをよく把握していないのです。愛というのは単なる同胞的な感情ではなく、私達が実践すべき原理です。単なる博愛の思想ではなく、慈善行為をしたり、自分や人のために活動的に貢献したりすることなのです。それについて話すことではなく、それになること、− 自分の存在に組み入れること − 私達の内にみなぎらせるものなのです。するとそれは、生きとし生ける者をいかなる例外もなく、ダイナミックで創造的な慈悲の思いで活き活きと包みこみます。思いが充分強ければ、正しい行為は自ずから続くのです。

人は他のイデオロギーに対抗するために観念を語ります。私達仏教徒は新しいイデオロギーを必要としません。それが仏陀の教えの中にたくさんあるからです。四つのブラフマー・ヴィハーラの中の一つであるメッタは、それだけで何か高尚なこと、家庭や社会や世界を平和で幸福にする、何か素晴らしいことを創り出すのに充分なのです。

メッタ、純粋な慈悲、はあらゆるところであらゆる存在を抱擁しています。地上でも空でも天国でもです。それは高きも低きも無条件で、すべてを抱擁しています。というのは、貧しい人々、虐げられた人々、邪悪な人々、無知な人々が、最もそれを必要としているからです。彼等の中では暖かさや親しみが欠けていて、それが死んでしまったのです。このメッタは彼等の中で、砂漠を走る小さな流れになるのです。このメッタは愛情深い人も、善人だが愛情のない人も、悪人もすべて包み込んでいるのです。

あなたは尋ねるかもしれません。「愚かな人達、愚か者も愛さなくてはいけないのでしょうか」。海外ではよく訊かれる質問です。「蛇を愛さなくてはいけないのですか」。西洋の婦人達はこうも尋ねます。「ネズミを愛さなくてはいけないのでしょうか」。西洋の婦人達はネズミが嫌いなのです。けれども医者が患者を憎まないように、私達も人を憎むべきではありません。医者の義務は、患者の罹っている病気を鎮め、取り除き、その人の中の悪いもの、その人を苦しめている病気を取り去ることです。それゆえ、すべての人を無条件に受け入れなくてはなりません。

このメッタは、今日世界で「愛」とされ、また感情的な愛として賞賛され語られている肉欲とは全く違うものです。このメッタはもっと高尚なものであり、実は愛の最高の形態です。それは感傷的・肉感的な愛よりも高度なものです。

外見からは感傷的な愛はとても優しく見えるのですが、それは火のようなものです。実際のところ火よりも遥かに酷いのです。それはひとたび生まれると急激に成長し、ある瞬間には花開き、そして枯れ、また次の瞬間にはその愛の所有者を焼き、醜い傷と傷跡を残します。それでビルマではこう言うのです、「アチッキー、アムエッキー」。感傷的な愛を持てば持つほど、憎しみも増え、苦しみも増えるのだ、と。というのは、それがよく燃える火のようなものだからです。けれどもメッタには優しい手の柔らかい感触のように、冷却効果があります。優しく、しかもその同情心を変えることなく確固としています。ですからそれは穏やかで楽しい雰囲気を作り出すのです。

愛する者のために悲しむことはこの愛、メッタの徴候ではありません。愛とは強さです。それは純粋であるために、強さを与えるのです。弱いものではありません。

私は、パーリ語ではなくて、たいへん貴重なお経であるメッタ・スッタ、からの一節を訳したものを朗唱したいと思います。サヤーダウ達がほぼすべての機会にこのスッタをパーリ語で朗唱するのをあなた達も聞いているでしょう。

この一節は、愛とは何かについての例を与えてくれます。これは完璧な例ではないのですが、他に良い例がないので仏陀は母親の愛を選びました。彼はメッタ・スッタでこう言っています。

「母親が生命の危険を賭けてさえも自分の子供を、たった一人の子供を愛し守るように、人をしてこの普遍的な愛を、全宇宙へ向けての愛を育成させなさい。下にも上にも、周り中に、惜しみなく、相反する気持ちの混ざっていない愛を。この心の状態に揺らぐことなく留まり続けなさい。目覚めの時からずっと、立っていようと、歩いていようと、座っていようと、横たわっていようと。この心の状態が世界で最良のものである」。
注--サヤーダウ:マハーテラに対するビルマ語。テラとは十年間完全に聖職に就いていた僧のこと。マハーテラは二十年間完全に聖職に就いていた僧のこと。

これが仏陀が世界のために掲げた模範です。これが人間とはどうあるべきかという理想です。すべての人の心への訴えかけです。母親の愛という形ですべての人に尽くすことです。母親はただその愛を、子供を育てる間放っているだけでしょうか。母親の心の中にある子供への不死の愛を表現できる人がいるでしょうか。子供への母親の愛を深く考えてみると、それには境界がないことに気がつきます。それでその愛は、パーリ語で「アッパマーナー」と呼ばれているのです。それには限界がありません。

たった一人の子を持つ母親の愛は、仏陀が例として選んだものです。母親の愛を想像してみてください。子供がお腹が空けば、母親は注意深く見守っていて、求められる前に食べ物を与えます。子供が危険な目に会えば、母親は自分の命を賭して救います。このようにすべての面で母親は子供を助けるのです。それで仏陀は私達に、母親がたった一人の子供を愛するように、生きとし生ける者を愛するようにと言ったのです。もしある程度まででもそれができたら、世界は変わってしまうでしょう。世界はもっと幸福で平和になるでしょう。

いくら私達が愛について多くを語り、「サッベ・サッター・アヴェラー・ホントゥ、アヴィヤーパージハー・ホントゥ、等々」(すべての意識ある存在が危険を免れますように、彼等が抑圧から開放されますように、等々)という決まり文句を繰り返したところで、この愛なしには効果があるでしょうか。この一節は朗唱するためだけにあるのではありません。仏陀は朗唱のためだけに、彼の教えを学ぶようにとは言っていません。教えとは処方箋と同じ性質のものです。医者は診断し、あなたの病気の原因を見つけ、その診断に従って処方箋を書きます。その処方を前や後ろから読み上げることで病気は治癒するでしょうか。食べ物の、カレーの作り方のレシピーをあなたは持っているかもしれません。それを前や後ろから読み上げてみても何の結果も現れません。ですから朗唱というのは現実的ではないのです。理論は良いものですが十分ではありません。というのは、それはものごとの終わりではなく始まりだからです。ですからメッタ・スッタを唱えることは良いのですが、仏陀はそれを単に唱えるためだけに示したのではないのです。仏陀は、私達が彼の教えに従って、世界中で最良の心であるメッタを実現するように、と熱心に説きました。ですから私のアドバイスは、単なるスッタの朗唱に満足せずに、それを実践して「それに成る」という観点から、それであなたの存在を覆い尽くすという観点から、メッタの意味を理解するように努力しなさい、ということです。そこが重要なのです。瞑想というのは単にそれについて考えることではなく、毎日の生活の中で実践することなのです。

あなた達に、愛についてのとても短い瞑想をしてもらいたいと思います。あなた達が瞑想に親しめるように、どこに行ってもすることができる、実際の方法をお見せしましょう。

さて、愛のメッセージに辿り着きました。私達は、母親がたった一人の子供を愛するように、すべての存在に対して愛に満ちているようにと求められています。ですからメッタは役に立つこと、喜んですること、他人の幸福のために犠牲になる精神、と歩調を合わせて行かなければなりません。

ディーガ・ニカーヤの中で仏陀は、利他的、慈悲、慈愛といった美徳のほとんどがこのメッタには含まれている、と言っています。もしあなたに本当のメッタがあれば、あなたはほとんどすべてを持っていることになるのです。あなたは高貴で崇高な平和を放つことができるのです。存在をお互いから引き離すすべての障害を打ち破ろうとするのは、このメッタなのです。

愛が和解のための基本策になるのかどうか、と疑う人がいるかもしれません。多くの人がこの愛、メッタを女性的な美徳と見なしています。彼等はそれが優しくて女性的な美徳だと言います。しかし本当の愛というのは、あらゆる障害を破壊し、そして建築する、男性的でダイナミックな力です。誰が最も長く続いた帝国を築いたでしょうか。アレクサンダーでしょうか、シーザーでしょうか、それとも仏陀でしょうか。私達はよくローマ帝国、フランス帝国、ロシア帝国について話します。あれらの帝国は今どこにあるのでしょうか。あれらの帝国は一時的に存在しただけです。なぜなら、それが憎しみや傲慢さ、自惚れを土台にしていたからです。愛が基本にあったのではないからです。愛を拠り所としない政策はどんなものでも長期間は続きません。

この関係で比喩を使いたいと思います。人生は永久運動の大車輪のようなものです。この大車輪の中には無数の小さな車輪があって、各々がそれ自身のパターンを持っています。大車輪と小さな車輪、広大な宇宙と個人は関連し合っていて、貢献、幸福、発展のためにお互いに支え合っています。それゆえ私達のすべきことは、一人一人の善を引き出すことです。それは世界のパターンと調和しています。すべての車輪が調和して回転するためには、一人一人が最良のものを生み出さなくてはなりません。たとえば車が動くように、それを使えるようにするためには、各部分が整備されていなくてはいけないのです。もし幸福な家庭、幸福な家を作りたいと思ったら、家中の人が、少なくともその大多数が健康でなければなりません。自分自身の中に調和を作り出したいのなら、自分の大部分が秩序立ち、幸福や平安と調和するようにしなくてはならないのです。それは毎日の、毎時間の義務を、愛と親切と誠実さをもって果たすことによって、今ここでできることなのです。

仏陀が私達に示した理想は、お互いに貢献し合うということです。人はお互いを必要としているのだから、助け合い、お互いの重荷を背負い合うということです。私達には三種類のすべきことがある、とニカーヤでは言っています。つまり仏教徒にとっての三様式の行為です。パーリ語でそれを、ブッダッタ・カリヤー、ナータッタ・カリヤー、ロカッタ・カリヤー(悟りの境地へ向けて努力すること、近親者や友人の利益のために働くこと、全世界の利益のために働くこと)と呼びます。同様に、私達各々にも三種類のすべきことがあります。「アッタ・カリヤー」は、幸福、自己修養、自己実現を達成するために、自己開発への努力をすることです。二つ目の行為様式「ナータッタ・カリヤー」は、近親者や友人の利益のために働くことです。三番目に私達がすることは「ロカッタ・カリヤー」で、カーストや肌の色や宗派の差別なしに、全世界の利益のために働くことです。仏陀は私達に、この三種類の行為をするようにと求めました。仏教は開発、つまり自己開発の方法であり、心の修養なのです。ですから私達がすべきことは、仏陀によって示されたこれらの原理を実践して、私達の性質を洗練して、存在の秤にかけた時の自分を向上させることなのです。

現代教育はご存知のように、主にお金を稼ぐ手段や、ものごとを手配したりコントロールしたりすることを教える教育です。仏教は心の教育なのです。ですから、もし宗教が頭の中の知的な信仰としてのみ捉えられるとしたら、それには勢いがありません。実践の伴わない宗教は結果を生み出すことができないのです。ダンマパダの中で仏陀は言っています。注釈-1「美しい言葉や思想は、それに見合う行為が伴うのでなければ、実を結ばない派手な花と同じである。それはどんな結果も生み出さないのだ」。 ゆえに思索ではなく行為が、理論ではなく実践が重要なのです。ダンマパダによれば、それに相当する行為が後に続かない「意志」は、意志ではないのです。それで、高貴な原理を実践することが仏教の精髄であるのです。

これに関係してまた言いたいことは、このメッタ、普遍的な愛は一般には他人との関わりのうちに存在すると思われていますが、実際は自分への愛が先に来る、ということです。それは利己的な愛ではなく、自分自身に対する愛、純粋な愛が先なのです。私達が愛について瞑想する時、先ず自己への愛について瞑想します。(アハン・アヴェロ・ホミ...など)(私が害悪から自由でありますように)私達が定義したところの純粋な愛、メッタを持つことによって、利己的な傾向、憎しみ、怒りなどは減少します。ですから私達自身がメッタを所有していない限り、それを分かち合ったり、放ったり、他人に送ったりすることはできないのです。もしあなたがお金を持っていなかったら、どうやって小銭でさえ送ることができるでしょうか。それで愛についての瞑想は、私達の内側から始めなければならないのです。私達は自分を愛している、とあなたは言うかもしれません。もしそうであるならば、自分の中に怒りの思いを持つことで、自分を害することができるでしょうか。あなたが人を愛している時、その人を害することができるでしょうか。自己を愛するとは、利己的なこと、憎しみ、怒りなどから自由になることを意味します。ですから、このような望ましくない感情を自分の中から取り除くために、自分を愛さなくてはならないのです。仏教によれば自己愛が最初に来ます。仏教は常に私達自身を扱う方法です。ですから仏教は自己救済なのです。自分を救うことによって結果的に他人をも救えるのです。私達は外側のこと、つまり他人を救う義務について語ります。けれども仏陀が指摘したように、注釈-2もし人が自分自身を救うことができないなら、他人を救うことはできません。 注釈-3ダンマパダはこうも言っています。どんな敵も、その人自身の貪欲さ、憎しみ、嫉妬などよりも酷くその人を傷つけることはできない。自分自身の中に幸福を見出すことができないなら、他のどこにも見出すことはできない。また、自分自身をコントロールできない人は幸福を見出すことができない、とも言われています。社会奉仕においていわゆる社会奉仕者達は、彼等自身の心が穏やかになるまでは、自分のしている仕事に幸せを見出すことができません。彼等の心が穏やかでなければ、人の心を穏やかにすることはできないのです。それゆえ私達は外側の組織の中においてだけでなく、内面の修養においても正しく鍛えられなくてはならないのです。いわゆる社会奉仕者達の多くの場合、彼等は実際には独裁者のように人にすることを命令しています。そして彼等は言うのです、「私達は最善を尽くしているのに他の人が私達の援助を受け入れない」と。もし、して貰いたいと思うやり方で適切に与えられるものならば、誰でも援助が欲しいのです。他人がそうしたいというやり方で、ではありません。ですから本当の社会奉仕者とは、先ず自分自身に対して真実の愛を持っている人、純粋で非利己的な愛以外の何ものでもない愛に満ちた人でなければなりません。その時彼は二重に祝福を与えることができます。つまり、彼は純粋で真実の愛を持っているので、人を援助している時に自分も楽しむことができ、同時に人を幸せにすることもできるのです。


注-1-ダンマパダ: プッファヴァッゴ、詩句51
注-2-ダンマパダ:詩句158「人は先ず自分を正しく確立しなければならない。そうして初めて人に助言することができる。このような賢者は責めを負わない。」:
注-3-ダンマパダ:詩句42

覚えていると思いますが、ジャータカの話の中でボーディサッタ(菩薩)、すなわち未来の仏陀は、いつも人を助けることで自分を鍛えようとしていました。そうすれば人は幸福になり、彼はもっと大きな援助ができるように強くなることができるのです。

もし人が自分自身に正しくなかったら、他人にも正しくなることはできません。人は最初にその分野を完璧に習熟した上で、初めて完璧な仕事をするエンジニアのようでなくてはいけません。訓練を完全にやり遂げた後で彼はきちんとした仕事ができるのです。資格を持たない医者が患者を救おうとしても、反対に患者に害を与えてしまうかもしれません。ですからどんな種類の指導者も、それが社会的であれ政治的であれ宗教的であれ、もし彼が心の修養をしていなければ、大衆を誤った方向に導く可能性があるのです。

私達はあまりにも外側の訓練を見慣れていて、内側の訓練、自分自身の訓練を忘れています。他人を訓練したがって、自分の訓練を忘れているのです。私達には自分はいつも正しくて他人は間違っている、と当然のように思う傾向があります。他人を非難することは人間の特性であるようです。時間に遅れた時でさえ人は誰かを非難します。妻のせいとか、友達のせいとか、他の誰かのせいだとか。私は自分だけを責めなさいと言っているのではありません。孔子の格言にたいへん知恵に満ち役に立つものがあります。「心の修養ができていない人は他人を責め、修養半ばの人は自分を責め、修養を完成した人は誰をも責めない。問題は『何が悪いのかであって、誰が悪いのかではない』のである」。

仏教の方法によれば、自己訓練が先に来ます。個人の完成が第一でなくてはならないのです。そうして有機的な全体が完全になるのです。外界の状態は私達の内面の反映だからです。

さて最後に、私はあなた達に二・三分間、愛について瞑想してもらいたいと思います。そうすれば、私達の考えや行為や言葉は愛に満たされることでしょう。修養を積んだ心からは、正しい思考、正しい行為、正しい言葉が生まれるのです。

実際の瞑想では、先ず自分自身を愛で満たし、心の中で「私が健康で幸福でありますように」と言います。しばらくしたらそれを他人にも広げて、心の中で言いましょう。「宇宙の存在すべてが健康で幸福でありますように」。本心で思い、感じましょう。そして世界があなたの愛で、母親が自分のたった一人の子供に向けるような、彼等が幸せになりますようにという大きな望みで、満たされているのを感じましょう。

あなたが眠りに着く前にこのメッタの思いを送ったら、きっとあなたに途方もなく平安に満ちた眠りが訪れるでしょう。このメッタの思いを持ち続けることができたら、あなたは静かで平穏な、成功した人生を送ることができ、あなたが愛に満ちているために人からも愛されることでしょう。世界は大きな鏡のようなもので、もしあなたが笑顔で鏡を覗けば、あなたはそこに自分の微笑んでいる美しい顔を見るでしょう。もししかめ面で鏡を覗けば、そこにはいつもあなたの醜い顔が見えるでしょう。挨拶の形式にもこんなものがあります。「やあ、世界は君をどう扱ってる?(やあ、元気?とか、どうしてる?という意味の挨拶)」答えは普通、「うん、私は結構だよ(元気です、という意味)」です。あなたの答えはこうでなくてはなりません。「うん、私が世界を扱うのと同じように世界は私を扱っているよ」。

もしあなたが世界を適切に親切に扱えば、世界はあなたを親切に扱います。先ず他人が私達を親切に扱うことを期待してはいけません。私達自身が他人を親切に扱い始めなければならないのです。

メッタ・バヴァーナ
(慈悲の瞑想)
  1. メッタを実践する人は安眠できる。彼は床に着き目を閉じると間もなく深い眠りに落ちる。
  2. 彼は幸せな気持ちで目を覚ます。
  3. 彼は悪夢に悩まされることがない。
  4. 彼は人に好かれる。
  5. 彼は他の生き物にも好かれる。
  6. 彼は毒物には免疫があり、敵対する勢力を鎮圧することができる。
  7. 神々は彼を守護している。
  8. 彼は容易に集中することができる。
  9. 彼の顔は静かで、落ち着きがあり、美しい。
  10. 彼は安らかに死の床に着く。
  11. 彼は幸せな状態に生まれ変わる。
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