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慈心観(mettaa bhaavana)

今夜は皆様のために、四種類の護衛禅の瞑想法について話してみよう。

慈心観を修習したいと欲する修行者は、先に、どのような人が自分の瞑想の対象にふさわしく、どのような人はふさわしくないかを知っていなければならない。一人だけを瞑想の対象とするときは、それが異性であってはならない。しかし、遍満慈心観を修習するとき、例えば「願わくば、全ての有情、全ての息ある者、すべての男性、すべての女性・・・」(sabbe sattaa、sabbe paan.aa sabbe purisaa、sabbaa ittiyo)とするのであるならば、異性も中に含めてもよい。故に女性の修行者は、男性を一人だけ選んで慈心観の修習の対象としてはならず、同様に男性修行者は、一人だけ女性を選んで慈心観の修習をしてはならない。もし、一人だけ異性を修習の対象にすると、貪欲(raaga)が生起するかもしれず、修習の障害となるからである。

死者も慈心観の修習の対象としてはならない。その理由は、それは禅那を証することができないからである。故に決して単一の異性と死者を慈心観の瞑想の対象としてはならないのである。

慈心観を修習し始めたばかりの段階で、瞑想の対象にするにはふさわしくない人がいる。即ち、一、極めて親愛な人。これはセンチメンタルな感情に引き込まれる可能性がある(極めて親愛な人は、その人に少しの苦痛があっても耐えられない)からである。二、中立的またはあまり好悪の思いがない人。修習を始めたばかりの段階では、この種の人を対象にすると修習が困難になる。三、怨敵。始めたばかりの段階では、怨敵に慈心を発するのは容易ではない。故に最初の慈心観の対象としては、敬愛する同性の人を選ばなければならない。

<慈愛経>(mettaa sutta)のなかに、仏陀は比丘対し、先に遍禅を基礎として、その後で観禅を修習するよう指導したと記載されている。しかし、比丘たちが修行しようとして天人たちの干渉を受けたので、仏陀のところに戻って教えを請うたとき、仏陀は「応用業処」(parigariya kammatt.t.aana)としての遍禅を、慈心観に転換するようにと指示したのである。なお、応用業処とは、日常的に修習している瞑想法のことである。遍禅と慈心観は似通った性質を持っている。それは即ち、遍禅の似相は全方位に拡大するのであり、慈心観もまた慈愛の心を全方位の一切の有情に拡散するからである。また、もし修行者がすでに白遍第四禅の五自在に熟練している場合、修行者は慈心観の修習に転換するのも、慈心禅那(mettaa jhaana)を証するのも容易であるからである。これは白遍第四禅の近依止力が慈心観の効率を強化するためであり、このことから各種の瞑想は近依止力(upanissaya tatti)によって、相互に支えあうことができるということが分かる。

故に修行者は再度白遍第四禅に入り、かつ、禅定の光が明るく輝くようになってから、それを自分が選んだ慈心観の修習の対象である同性の人に向けて観想する

この四つの句によって、三または四度ほど慈愛を散布し、その後に、その中から自分がもっとも好きな一句、例えば自分が一番好きな方式が「願わくば、彼が心の苦痛から離れますように!」というのであれるならば、禅定の光をその敬愛する人に向け、この句によって、その人に慈愛を伝播するようにする。心の中で「願わくば、この善き人が心の苦痛から離れられますように!心の苦痛から離れられますように!」と黙念する。修習心(bhaavana citta)は、内心に苦痛なく、顔に微笑を保った敬愛すべき人の面影に意を注ぐようにする。

  慈心観の所縁は、概念(panynyatti)であり、究極法(paramattha)ではない。そのため、心は有情の概念(satta panynyatti)に専注しなければならない。心が内心に苦痛なく、顔に微笑を保った敬愛すべき人に、極度に専注することができるならば、すでに禅那に近いのだといえる。この段階で注意していただきたいのは、禅定の光を微笑している人に向かって照射したなら、照射される人が座っていても立っていても、まさに楽しい状態であるような姿勢に整えることを忘れてはならない、ということである。

慈心観の安止定

その後に、前述したように観想する「この善き人が心の苦痛を離れられますように!」もし、心が有情の概念に対して少なくとも一時間専注することができたなら、尋、伺、喜、楽、一境性の五禅支が非常に明晰に心に顕現するが、これが即ち初禅を証したということである。このとき、過去において、白遍第四禅を修習したことのある修行者は、非常に容易に慈心第二禅を修習することができるが、それは白遍第四禅の近依止力の故にである。故に、初禅の尋、伺を除くと、即第二禅を証することができる。もし、更に進んで第二禅の喜を除くなら、楽と一境性の二つの禅支だけを擁する第三禅を証することができる。慈心観は、第四禅を証することはできない。なぜであるか?心が他人に対して「厄難を離れ、心の苦痛を離れ、身体の苦痛を離れますように」と希望しているときに、心は捨(upekkhaa)に止まることができるであろうか?それはできないのである。その時、捨心があるはずがないのであるから。故に慈心観の修習は、第三禅を証することができるだけである。「願わくば、心の苦痛を離れんことを」という方式で第三禅を証したあと、引き続き逐一、その他の三つの方式で修習して、第三禅までを証する。即ち、「願わくば、厄難を離れんことを」の方式で第三禅まで証し、その後で、「願わくば、身体の苦痛を離れんことを」の方式で第三禅を証し、また「願わくば、己を尊び楽しからんことを」の方式で第三禅まで証する。

この修習に成功したなら、次にもう一人の敬愛すべき人を選び、この四つの句をもって、逐一、相手に対して慈愛を向け、それぞれの文言によって第三禅を証するまで修習する。次にまた瞑想の対象としてもう一人別の人を選る。このようにして、四、五人ほどの敬愛すべき人を瞑想の対象として、それぞれの人に慈愛を送りつつ、第三禅まで証する。

その後、同性の親愛する人に慈愛を向ける。例えば、父親または母親、兄弟または姉妹、または同性の親戚などである。敬愛すべき人への慈愛と、親愛すべき人への慈愛は、同等のものであるべきである。その後、四、五人の、好悪の感情を持たない中立的な人を選び、その人たちに対して、第三禅を証するまで、逐一、慈愛を送り続ける。この修習に成功したなら、次に怨敵に対して慈愛を向けるようにするが、これは怨敵を持つ修行者だけ行うもので、そうでない修行者はこれを省略することができる。

怨敵への慈心観の修習

どのようにして怨敵に慈愛を向けるのか?敬愛すべき人、親愛すべき人と中立的な人に慈愛を送っている時、その慈心が強く力あるものに変化したとき、禅定の光を同性の怨敵に向け、かつ慈愛をその人に向ける「願わくば、この善き人が厄難を離れんことを。心の苦痛を離れんことを。身体の苦痛を離れんことを。己を尊び、楽しからんことを!」このなかのどれか一つの方式を選んで、禅那を得るまで修習する。禅那を証することができないのであれば、そのときは<清浄道論>のなかに述べられている種々の方法で省察する。

人は食事をするときに、食べたくない骨は取り出して避け、自分が好きな肉の部分だけを取り込もうとするが、同様に、一人一人の人間はそれぞれ愛すべきまたは敬すべき長所を持っているものであり、故にこのときは、怨敵のどのような醜悪さや欠点に対しても心を向けることがないようにする。(そして、ただその人の長所だけを省察して)その後に、その人に向かって、慈愛を向けるようにする。

もしこの方法で禅那を証することができないのであるならば、もう一つ別の省察を行う。仏陀は<相応部・無始経>(anamatagga samyutta)(注31)のなかで、過去の長い長い輪廻のなかで、一切の衆生は、かつて皆、お互いに父であり、母であり、子女であり、兄弟であり、姉妹であるような近しい関係にあったのであり、どの人も、過去において、お互いに無関係であった人などいないのである、と述べている。「現在、我々は、お互いに憎しみ恨むことがあるかもしれないけれども、過去世においては、彼または彼女は、自分が非常に愛した息子または娘かもしれないし、または自分自身がその人の息子か娘であったかもしれない」このように省察してから、慈愛を送れば慈心禅那を証することができるかもしれない。

もし、このような省察をしても、なお禅那を証することができないのであれば、修行者は、怨敵に対して悲心を激しく呼び起こさなければならない。なぜであるか?それは一切の衆生が皆、老い・病いと死から逃げることができないからである。もし、ある人が今だに凡夫(puthujjana)であるならば、その人はいまだ悪道(apaaya)から離脱しておらず、故に一切の衆生は極めて哀れなる存在なのである。このように省察してのち、慈愛を向けるならば、禅那を証することができるであろう。

もし、これでも無理な場合、諸界を分別する。「私は彼のどの部分に対して怒りを感じているのか?彼の頭部であろうか?それとも彼の体毛であろうか?それとも彼の爪であろうか?彼の皮膚?肉?腱?骨?骨髄?・・・などなど」三十二の身体部分をすべて省察してみる。このようにしてもなお、怨恨を解消することができないのであれば、次に怨敵の四界を分別してみる。これは、すでに四界分別観を修習したことのある修行者にとっては、非常に容易なことである。「私が腹を立てているのは、彼の地界?水界?火界?それとも風界?」四界の省察を通して、怨恨は平息するであろう。もし、修行者が名色または五薀の判別・確認に熟練しているならば、智をもって五薀を判別・確認したあと、このように省察すれば、怨恨は平息する。「私は彼のどの薀に腹を立てているのか?色薀?受薀?想薀?行薀?それとも識薀?」。

それでも不可能な場合は、慈心観の十一の長所・効用(功徳)を省察する。修行者は十一の長所・効用をもって自分を訓戒、反省すべきである。慈心観の修習を通して、それらを獲得しようとするなら、なぜ自分は、いつまでも怨敵に腹を立てているのか?このように省察してのち、慈心観を証することによって十一の利益を得たいと欲する心を抱いて、怨敵に対して慈愛を送る。このようにすれば、慈心禅那を証することに成功することができるであろう。

慈心観を修習しているとき、修行者は先に慈愛を自分自身に向けなければならない。その理由は以下の通りである。

一、四種類の人がいる。

即ち:(一)自分(二)愛する人(三)中立的な人(四)怨敵。この四者のなかで、第一の者(即ち、自己)に慈愛を送っても禅那を証することはできない。すでに白遍第四禅を証した修行者が、慈心禅那を証したいと欲するなら、白遍第四禅の力を借りて、慈心禅那を証するまで、敬愛すべき人に慈愛を送り、それが成功した後、親愛なる人にも慈愛を送る。この二種類の人は、みな愛すべき人(piya)に属しているので、この二種類の人を瞑想の対象にして修習し、慈心禅那を証することに成功したなら、次に、禅那を証するまで、中立的な同性の人に慈愛を送る。慈心が強くかつ力のあるものになってから始めて、慈愛を怨敵に送り、そして禅那を証する。この修習は怨敵のなる修行者にのみ適合するので、敵のない修行者は、この修習をする必要はない。怨敵のある修行者は、どのような怨敵を対象に慈愛を送るべきなのであろうか?修行者は、先に少しだけ怒りを感じる怨敵に対して慈愛を送り、非常に憎んでいる人は最後に残しておく。上述の如くに、怒りと恨みの過失と慈愛の利益を省察したあと、四句のうち、それぞれの句によって第三禅を証することができるまで、怨敵に対して慈愛を送る。

限界の突破

極めて憎んでいる人に対して、慈愛が送れるようになるまで、修行者は逐一、慈心観の対象を取替えて修習すること。そしてその後に、修行者は更に一歩進んで、限界を突破する(siimaa sambheda)ための修習をしなければならない。siimaaとは限界を指し、sambhedaとは突破を意味する。限界とは何か?もし、修行者がある人には慈愛を送ることができるのに、他の人にはできないということであれば、限界があるということになり、この場合は、心境が平等で分別・差別する心がなくなるまで修習しなければならないのである。

この(限界を突破したいと欲する)段階において、修行者は四種類の人に慈愛を、順序良く送らなければならない。即ち、自分、愛すべき人、中立的な人および怨敵。自分に慈愛を送っても禅那を証することはできないが、こうするのは基準を確認するためである。先に「願わくば私に、厄難の離れんがことを、心の苦痛を離れんがことを、身体の苦痛を離れんがことを、己を尊び、楽しからんことを」と、三、四回観想し、これを基準にして「私が自分自身に厄難の離れんことを願った如くに、人もまた、彼ら自身によって厄難の離れんことを。私が自分自身に心の苦痛を離れんと願った如くに、人もまた、彼ら自身によって心の苦痛を離れんことを」。このように三、四回省察してのち、四つの句による方式を用いて、それぞれの言文によって、第三禅まで証することができるまで、愛すべき人に慈愛を送る。そのあとで、四つの句の方式によって、それぞれの言文によって第三禅まで証することができるまで、中立的な人に慈愛を送る。このようにして初めて、四つの句の方式で、それぞれの文言によって第三禅が証することができるまで、怨敵に対して慈愛を贈る。

続いて、改めて自分に慈愛を送り、次にもう一人の、前とは異なる愛すべき人、中立的な人と怨敵に慈愛を送る。禅那を証することができるまで、慈愛を、それぞれの種類の人に送ることにチャレンジしてみる。成功したなら、次は自分と、もう一人の異なる愛すべき人、中立的な人と怨敵に慈愛を送る。このように修習して慈心が強固になった場合、どのようなことが発生するか?慈心は自分、愛すべき人、中立的な人と怨敵の四者に対して平等になり切るため、偏ってどれか一種類の人だけを愛するというような偏愛はなくなる。このとき、修行者は限界を突破したのである。<清浄道論>に、一つの比喩が語られている。

もし、人がこの四種類のなかから誰か一人を選んで殺せと命令したとき(その他三人の生命を守るために)誰かを選び出したなら、修行者の慈心は未だ平等になっていない。修行者の慈愛が誰に対しても平等で、誰をも選び出すことができないとき、修行者は限界を突破したのだといえる。

無限界と有限界の遍満慈心

限界を突破した修行者だけが、五項の「無限界遍満慈心」(anodhiso pharan.a mettaa)と七つの有限界遍満慈心(odhiso pharan.a mettaa)を修習することができる。未だ限界を突破していない場合は、修行者は「願わくば一切の有情・・・」の方式で慈愛を送っても(遍満)慈心禅那を証することはできない。五項の無限界の遍満慈心とは、一切の有情、一切の息のある者、一切の生物、一切の人間および一切の生命のある者(sabbe satta、sabbe paan.aa、sabbe bhuutaa、sabbe puggalaa、sabbe attabhaavapariyaapanna)である。(上の五項は、名称が異なるものの、一切の衆生を指す)。「願わくば、一切の有情が厄難を離れんことを、心の苦痛を離れんことを、身体の苦痛を離れんことを、己を尊び楽しからんことを」。注釈には、如何にして慈心観に熟練するかという比喩がある。農夫が田を耕すとき、まず、真ん中の小さな土地を耕す。そして、徐々に耕す部分を広げていき、最後に田地全部を耕す。同様に、先に、自分の近くに五つの無限界遍満慈心と七つの有限界遍満慈心を伝播し、その後で徐々にその範囲を広げていく。例えば、一軒のお寺から始め、その範囲内の十二組の衆生を瞑想の対象とするのである。

この十二組の中では、先に「無限界遍満慈心」の先頭の五組を瞑想の対象とする。白遍第四禅の光で寺院全体を照らし、その範囲内にいる天神、動物、人類と悪道の衆生などを含む衆生を見られるようにする。第三禅を証することができるまで、光で彼らを照見し、「願わくば一切の有情が厄難を離れ・・・」の如くに願い、彼らに慈愛を伝播する。すでに、限界を突破することに成功した修行者は、非常に容易に慈心禅那を証することができる。「願わくば、厄難を離れ・・」の方式で第三禅まで修習し、次に「心の苦痛を離れん・・の方式で第三禅を修習し、それに成功したのち、「身体の苦痛を離れ・・」の方式で第三禅を修習し、最後に「己を尊び、楽しからんことを」の方式で第三禅を修習する。修行者は、逐一、四つの句によって、一切の有情に慈愛を送り、次に、それぞれ四つの句の方式で、一切の四つの息ある者、一切の生物、一切の人間と一切の生命のある者に慈愛を送る。上の修習法を「無限界慈心」というのは、特定の衆生を瞑想の対象として指定していないからである。

この五組の修習に成功した後、次に七つの有限界遍満慈心を修習する。ここでいう「限界」(odhiso)とは、瞑想の対象を「指定」するからである。如何にして、どのような種類の衆生を指定するのであろうか?

(一) 一切の女性(sabbaa itthiyo):先に、一人の異性だけを選んで慈愛を伝播する対象としてはならないといったが、しかし、異性全体を一つの単位として、慈愛を伝播するのは可能である。四つの句の方式で、第三禅を証するまで一切の女性に慈愛を伝播する。その後で、それぞれ四つの句の方式で(二)一切の男性(sabbe purisaa)(三)一切の聖者(sabbe ariyaa)(四)一切の凡夫(sabbe anariyaa)(五)一切の天神(sabbe devaa)(もし、寺院を選んだのであるならば、修行者は、この範囲内の天神を見ることができなくてはならない。光で彼らを照見してから、彼らに慈愛を送る)(六)一切の人類(sbbe manussaa)および(七)一切の悪道衆生(sabbe vinipaatikaa)、これには一切の動物、阿修羅と悪鬼(<補>鬼と神は、六道衆生の一種。威のあるのを鬼、能のあるを神という)を含む。範囲内の地底にいって観じ、もし、地獄の衆生がいたなら、彼らをも含める。四つの句の方式によって、禅那を証するまで、これらのグループごとの衆生に対して慈愛を伝播する。

今までに述べたのは、十二組の慈愛の伝播方法であった。即ち、七つの有限界慈心(odhiiso mettaa)と五つの無限界慈心(anodhiso mettaa)である。それぞれ一組ごとに、修行者は四つの句の形式によって、禅那を証するまで、慈愛を伝播する。故に、寺院の範囲内でいえば、慈愛を伝播する方式は合計四十八個である。お寺での慈愛伝播の修習に成功したなら、修行者は二軒または三軒の寺院(この寺院の周りにも寺院があるので)に範囲を拡大して、四十八個の方式で慈愛を伝播する。成功したなら、次に範囲を一つの村、二つの村、一つの町、二つの町、三つの町などと広げていく。その後、国家全体に広げ、地球に広げ、三十一界(即ち、一個の世界、cakkavaala)に広げる。四十八個の方式で慈愛を一つの世界に伝播することに成功したなら、次に無辺世界(ananta cakkavaala)にまで範囲を広げる一組の三十一界とは一個の世界であり、世界はたくさんあるのであるから、何組みもの三十一界がある。そのため、四十八個の方式で慈愛を無辺世界に伝播するのである。

広く遠くまで満遍なく伝播され、かつ強く力あるこの慈心は「遍満」(vipphaara)と呼ばれる。この無辺世界の一切の有情に遍満する慈心はまた「無量」(aparimaana)と呼ばれる。即ち慈無量心である。「修行者はこの有情には慈愛がある。あの有情には慈愛はない」というような限界は突破された。もし、修行者が常にこの極めて強力な無量慈心に止まるならば、例えば比舎去尊者の如くに、人も天神も彼を愛するであろう。常に慈心禅那に入る修行者は無辺世界に慈愛を伝播したあと、全方位に向かって慈愛を伝播する修習をおこなう。それは即ち、遍満慈心(disa pharan.a mettaa)である。光を東方の無辺世界に向けて照らす。同様に四十八種の方式で慈愛を西方、南方、北方、道北、西北、東南、西南、上方と下方の無辺世界に伝播する。合計四十八の伝播方式がある。先に、慈愛を無辺世界(即ち、方向を指定しない)に伝播する四十八種の方式を述べたので、合計五百二十八の方式があることになる。五百二十八の慈愛の修習を系統的に行いたいと思う修行者は、<慈愛経>に基づいて、更に進んで慈心観を修習すれば、成功するであろう。以上に述べたのは、四つの護衛禅の一つである慈心瞑想法である。(注32)

二、 仏随念(buddhaanussati)

修行者は慈心観の修習を成功させた後、次の段階である仏随念を修習することができる。仏陀の九種類の功徳(長所・特質)のなかで、自分がもっとも好むものから始める。そのとき修行者は必ず、功徳の内容を理解しておかねばならない。例えば、その長所・特質に五つの定義を持つ「阿羅漢」(araham)を修習の対象に選ぶのであるならば、修行者はこの五種類の定義を良く知っておかねばならないし、この定義のうち、どの定義を一番好んでいるか、例えば「彼は人と天神の尊敬を受ける。なぜならば、彼の戒と定と慧は唯一無二であり、故に彼は阿羅漢と呼ばれる」などの事柄を了解しておかねばならない。この長所・特質を瞑想の対象としたとき、心のなかで、「阿羅漢、阿羅漢・・」と黙念するが、では如何にして観想するのであるか?

白遍第四禅によって定力を養成し、光が明るく輝くようになったなら、それを敬意を払うことのできる仏像に向ける。これは慈心観を修習するときに、慈愛を送りたい人に向かって光を照らしたのと同じように、禅那を証するためである。仏像を胸から6から9尺あたり、あまり遠すぎず、近すぎない位置に出現させる。そして、まず仏像を本当の仏陀であるとみなす。このように修習するとき、もし、修行者が近い過去世に生きている仏陀を見たことがあるなら、生きた仏陀の顔が生起する可能性がある。もし出現したなら、修行者は本当の仏陀の相を瞑想の対象とする。次に仏陀の別の長所・特質を修習する。

ここにおいては、一つ問題がある。仏の色相(ruupa)を観じないで、仏随念の修習をしてよいのであろうか?この問題に関しては、何種類かの意見がある。ただ、どちらにせよ、世尊(ghagavaa)のこの長所・特質には六つの定義があり、一切の瑞祥(sirii)を具備するというのは、そのうちの一つである。一切の瑞祥を具備するというのは瑞祥と、敬うべき色相であるから、仏陀の瑞祥の色相を対象に修習するのは、これまた仏随念である。それは仏陀の九つの長所・特質の中に含まれる。修行者は色相から別の長所・特質の観の修習に転換してもかまわない。人はこう問うかもしれない「もし、修行者が過去世で生きている仏陀を一度も見たことがなければ、または見たことがあっても、今生からあまりに離れいているため、心のなかに過去仏の色相が生起しないのであれば、どうしたらいいのか?」と。たとえそのようであっても、修習することは同じである。即ち、修行者は自分が尊敬する仏像を観想の所縁とし、その後に転換して、仏陀のもう一つの長所・特徴を観ずればよい。

色想を観想することから、「阿羅漢」の功徳を観じるべく転換するとき、仏陀が唯一無二の戒と定と慧によって人間と諸々の天神・天人に尊敬されたというこの功徳を瞑想の対象にして、心の中で「阿羅漢、阿羅漢・・」と黙念するが、心が「阿羅漢」というこの長所・特質に専注することができたとき、仏陀の色身は消失するかもしれない。それが消失した場合、それを追い求めてはいけない。引き続き、心を功徳に専注させることだけが求められる。

心が功徳に対して一時間ほど専注し、修行者が心所依処を判別・確認したなら(専注の心は心所依処によって生起しているため)、尋、伺、喜、楽および一境性を観る事ができる。これは「阿羅漢」の功徳を所縁にして仏随念を修習する方法であるが、その他の、例えば正等正覚者(sammaasambuddho)明行足(vijjaacaran.a sampanno)などの功徳への瞑想方法をまた、上の如くである。

三、 不浄観(asubha kammat.t.haana)

修行者は、仏随念を円満に修習し終えたあと、不浄観を修習することができる。不浄観には二種類の修習方法がある。一、不浄な行為を止禅の瞑想対象とする。二、不浄な行為を観禅の瞑想対象とする。止禅の対象とするとき、女性の修行者はただ女の死体を観想し、男性の修行者は男の死体だけを観想する。これは死体を瞑想の対象として、初禅を証する瞑想方法である。近行定の段階で、心が死体の似相に専注するとき、死体はわずかに綺麗になるかもしれないので、もし異性の死体であれば、貪欲が生起する可能性がある。瞑想の修行が貪欲の心によって破壊されるのを避けるため、異性の死体を観想することは許されない。しかしながら、観禅の修習において不浄を観ずるのは、禅那を証するためではなく、ただ「過患」(aadiinava)を観ずるためである。過患を観ずる段階で、修行者はどのような死体を観じてもよく、また男女を問わないのである。

<清浄道論>のなかで、如何なる禅那も証していない修行者は、先に不浄観を修習すると指示している。しかしながらパオ僧院では、すでに白遍を修習して第四禅を証した修行者は第四禅の力を借りて、不浄観を修習してもよいことになっている。修行者はこれまで見たうちで、最も嫌悪すべき同性の死体を瞑想の対象とする。修行者はお墓に行って死体を見る必要はない。なぜであるか?白遍第四禅の光が極めて明るいとき、自分が過去に見た、もっとも嫌悪すべき同性の死体を照らし出すからである。照見したとき、過去において、死体を頭部の位置において見ていたのであれば、今回、修行者は前と同様の位置で、光によって照見することができる。もし、以前は死体の左または右から見たのであれば、今回、修行者は左または右から、光によって照見することができる。以前に死体を足の方から見たのであれば、今回は足の方から、光によって照見することができる。ただ、その死体が明瞭な状態に変化したときにだけ、智をもって「嫌悪、嫌悪・・」または「不浄、不浄・・」と観想することができる。

過去に同性の死体を見たことがないのであるならば、ある種の修行者は何らかの困難に遭うかもしれない。もし、このようであるならば、同性の死体の不浄の相(asubha nimitta)を対象にする必要がある。修行者が早くから白遍第四禅に入ることに熟練していれば、第四禅から出定してのち、眼を開けて死体を観じるならば、非常に容易に死相を取ることができる。もし、修行者が白遍禅那に入る時間がないのであれば、ただ通常の肉眼で死体を見て、それを瞑想の対象にしてもかまわない。心の中で「不浄、不浄・・」と黙念し(修行者が座禅に戻ったあと)第四禅の定力によって、短時間内に容易に不浄相を取ることができる。不浄相が鮮明になったとき、心をそれに専注させ、「不浄、不浄・・」と観想する。

観想するとき、死体の未来については観照しない。でなければ、死体の相は骨になり、次に灰になってしまう可能性があるからである。ただし、死体の全部がこのようになるという訳ではなく、修行者が見ている死体が古いものであり、現在すでに灰になっている場合に、このようなことが起こる。修行者はまた、最も劣悪な状態の死体を専注の対象とする必要があるが、決して心を未来に向けて観想してはならない。心の中で「不浄、不浄・・」と黙念するが、不浄は必ず鮮明でなければならない。白遍第四禅の近依存止力によって、多くの修行者は皆、一回の座禅の時間内に、禅那を証することができる。もし、上手くいかない場合は、二、三回続けて修習する。

心が不浄なる死体に一時間ほど専注したあと、智をもって心所依処を判別・確認すれば(専注の心は心所依処によって生起するため)、五禅支即ち(一)尋、心を(死体の)不浄に向ける(二)伺、心を不浄に専注することを持続する(三)喜、不浄を喜ぶ(三)楽、不浄に相応する楽受(五)一境性、心と身体の不浄が一つに溶け合うこと、を観察することができる。

ここには一つ問題がある。骨または死体を観想しているとき、なぜ喜が生起するのか?なぜ、楽受が生起するのか?瞑想(bhaavanaa)修習の力によって喜と楽が生起するのである。例えば、あなた方が良く食べる「ガピ」(注33)は、極めて不潔なものであるが、しかし、炒めてしまえば不潔とは感じない。同様に、瞑想を修習した力によって、喜と楽が生起することがある。心が死体の不浄に専注し、瞑想の修習が成熟したとき、似相を得ることができる。言い換えれば、定力が近行定の段階にまで育成されたときに、もし似相が出現したなら、不浄の死体は一時的に綺麗なものに変化する。このとき、瞑想修習の力によって、喜および楽禅支は、生起するのである。

四、 死随念(maranaa nusssati)

不浄観の初禅を証した修行者は、簡単に修習を死随観に転換することができる。仏陀は<大念処経>のなかで「かくの如くに摂身(この身体に集中的に注意を向ける)するなら、『この身は如是法であり、かくのごとくにまさにあり、あるいはかくのごとくでないことがない』」と述べている。すでに不浄観初禅を証した修行者は、自分が一体の死体になったと観想し、例えば「私は必ず死ぬ。死は免れない。私は死から逃げられない。この不浄は必ず発生する。私はこの不浄を逃れる方法がない」と観想する。もし、腐乱相が出現したなら、それを瞑想の対象として、心をそれに専注させて、maranam me dhuvam、 jiivitamam me adhuvam 「私の死は必然である。命は決して定まらないものである」と観想するか、または「私の命の終着点は、死である」と観想する。

修行者は先に自分の不浄なる死体の相に対して専注し、その後、究極法である命根(jiibitindriya)を観ずることに転じる。修行者が専注する心を判別・確認するとき、五禅支は生起する。しかし、これらの禅支は安止定ではなく、ただ、近行定の禅支に過ぎない。これが、死随念の修習方法である。

まとめ

合計四つの護衛禅がある。即ち、慈心観、仏随念、不浄観と死随念である。修行者は毎日、一切の有情を瞑想修習の所縁として、一度慈心禅に入り、慈愛を寺院、村から無辺世界に伝播する。これは自分が瞑想の修習をするとき、厄難が起こらないようにするためである。仏随念の修習は、自分を厄難から守ってもらえ、夜叉、鬼神などの干渉を受けないように保護してもらえ、心を明晰にすることができる。故に、心が明晰でないとき、仏随念を修習するべきである。恐懼心(samvega)や退行および心が外にある所縁から離れないとき、死随念を修習するべきである。貪欲(raaga)が生起したときは、当然不浄観を修習するべきである。仏陀は不浄観を貪欲を断ずる方法として教えているのである。

  • 注30:この四つの句のパーリ語の原意と順序は、「怨み無く、怒り無く、苦なく、おのずと楽あらん」。
  • 注31:「漢訳南伝大蔵経」「相応部」
  • 注32:パオ禅師は通常、慈心観の修習だけを指導しているが、悲、喜および捨無量心を修習したい修行者は、希望すれば教えていただける。
  • 注33:東南アジア特産の魚醤または蝦醤。
  • 注34:原文では欠損があったため、パーリ語に基づいて補足した。「漢訳南伝大蔵経」(長部経典)参照。

以上


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