生きる目的、幸せは

照智一生
皆さま、こんにちは。

このような機会を頂いて、はちす会さまには大変感謝しております。私は、タイやミャンマーやスリランカに伝わる日本では小乗仏教と誤解されて伝わった、お釈迦さまの根本仏教を数年にわたって学び実践をした日本の僧侶です。ですから、これから私がお話をするものは、お釈迦さまの根本的な教えであり、皆様が幸福に暮らせる指針となるようなものとなるはずです。根本仏教は日本には伝わらなかった、一番古くて一番新しい教えですが、皆様のお役に立てれば幸いです。それではまずお釈迦さまのもっとも古い教えのひとつであるダンマパダの中からお話をしていきましょう。

仏教の大事な教えの一つに、他人の過ちを見ない、自分の心を見よ。と言うのがあります。

正確にはダンマパダの50『他人の とこのような教えです。

お釈迦さまのおしえはこのように人の生きかたを教えていると言うものが基本です。どのように生きれば幸せになれるのか。心とは何か。どうすれば良い心を作れるか。とそのような教えが90%なんです。ですから今日の私のテーマはどのように生きれば良いのか、何が幸せに生きられるのか。ということを中心に話して行きたいと思っております。

先ほどの話にもどりますが、どうしても我々人間と言うものは自分の心は見ずに、他人の批判ばかりしたがるものです。私が仏教に縁があった最初の動機も家庭内のごたごたでした。家に帰れば喧嘩ばかり。毎日言い争い。なんで女房ははしの上げ下ろしまで私のやることなすこと気に食わないのだろう。少しは私のことを考えてくれ。誰が働いて食わしているんだと思っていました。当然のように浮気もしていましたし、別れることばかり考えていました。悪循環のサイクルにはまってしまっていたのです。そんなときに友人から面白い僧侶がいるから行って見ないかと誘われて行ったのが仏教との出合いでした。

その日本の僧侶に言われたことは、人との出会いの縁は自分の徳によるものである。と言うことでした。何を言いたいかというと、夫婦になるような縁があるのは心のレベルや徳が同じようなものだから一緒になるのであり、同じような心のレベルでなければ出会うことも引き合うこともないというものでした。だから相手をせめるのなら自分の心を直しなさい。自分の心が悪いからいけないのだ。自分が変われば相手も変わる。相手の心を変えたければまず自分を変えることだといわれたのです。30歳のときでした。それから私の大乗仏教の勉強がまず始まったのです。ですから、家庭の苦しみが仏教に近づけたといえるのです。

会社に行きながらでしたが大乗仏教の勉強を10数年の間しましたが、あまり自分の心が変わっていないと言うことがさらに分かった出来事がありました。

やがて私は40歳になり、比叡山に上って正式に天台宗の僧侶となってしまうのですが、その後46歳のときにテーラワーダ仏教、上座仏教という仏教の僧侶、正確には比丘に出会いまた人生が変わりました。

その比丘の法話を聞き、感動して一緒に暫くのあいだ茨城の大洋村で生活をさせていただいたことがあったのですが、そのときの出来事です。そこは瞑想道場のようなところでしたので、毎朝パーリ語の勤行のあとに必ず来た人は瞑想をします。

あるとき一人の男性がきましてその方は、勤行が終わると一人瞑想もせずに逃げるように出て行ったしまうのですね。外に行って散歩をしているのです。

あとで、わかったことですが、その方は座ると眠くなるので歩行瞑想をしていたのでしたが、そうは知らずに私は先生に文句を言いました。みんなの秩序を乱すと思ったからなんですが、「なぜあの人は瞑想をやらないのですか。ここは瞑想道場でしょう。それならば時間どうりやったらいかがでしょうか。一人だけ時間を守らないと言うのでは決まりがつきません。それは困ります。」と言ったのです。

すると先生は、「人のことはほっておきなさい。人のことで文句を言う前に自分の心を調べなさい。いまあなたの心は怒っています。その怒りのこころに気づいてください。仏教は自分を直すものであって人を直すものではないのです。」といわれたのです。

私はまだ納得がいきませんでした。日本流に考えれば、団体の規則を守らないほうが悪いに決まっています。それなのになぜ先生は私を咎めるのか。なぜ相手に注意をしないのか、とそのように思っておりました。

そのわたしの心を見ぬくように先生は違う方向から言われました。「なぜあなたは怒っているのですか。怒ると言うことは苦しいことでしょう。なぜ人はいつも苦しんで生きているのでしょうか。

それは人は文句を言う癖がついているからです。口に出して言うのではなく、心の中で皆、文句を言っています。「暑い」「うるさい」「まずい」「汚い」「せますぎる」「大きすぎる」「間違っている」「つかれた」「淋しい」「忙しい」 文句を言ったから苦しくなるのではなく、文句が頭の中にある性格が人を苦しめるのです。

「自分の人生を幸せにしたければ、第1に気を付けなければならないことは文句人生にならないこと。世の中は自分の思いどうりにならないのが普通です。逆に思いどうりになることのほうが不思議です。いつでも気に入らないことがたくさんあります。はっきり言えばほとんど全部何もかも気に入らないことだらけなのです。」

「同じ部屋にいても、ある人は『冷房が効きすぎ』と文句をいい。ある人は「冷房が弱すぎ」という。楽しく暮らしたければ『何一つ自分に都合がいいように運ぶわけがない。気に入らないのが当たり前だ』と知ることです。これをどう乗り越えるのかは私次第、私の見方次第なんだと考えるのが正しいのです。」

文句を言う場合、「これは私にとっては都合が悪いのだから、私のためになんとかしなさい」という気持ちなんです。「この寒さでは何もできないよ。外へ行くのはいやだ。」と天気に文句をいいます。『私が嫌だから暑くなりなさい』と自分が神様より偉いと言う態度。

他人に文句を言う人は『私が嫌だから、あなたはそれをやめなさい。』「みんな私の機嫌を取りなさい」と言っているのです。文句を言う人の性格は『世の中すべてのものが自分中心に廻ってほしい』と思いたがるのです。

自然も他人も自分の思いどうりに動くと言うことは決してありえないのです。

文句を言う、性格を変えることは、一般の人々にとってはなかなか超えられないハンデがあって、それでなかなか幸福になれないのです。そのハンデとはそれは『自分が正しい』と頑固に思っていることです。「自分の生活だけは絶対に捨てない」とものすごく強くしがみ付いているのです。

仏教は外の世界を変化させるのでなく、自分の人格を成長させるのです。「自分の心を発展させよう。自分のこころがいつまでも成長するようにしよう。」と決めてください。

といわれ、次のお経をとかれたのです。 「他人の過ちばかりを考えつづけ、常に文句を言いたい気持ちでいる。その人の心に汚れが繁殖する。清らかな境地からははなはだ遠い」ダンマパダ253

人間関係の問題の解決方法は簡単です。自分の心さえ直せば問題ないのです。簡単ですが人間にはこれが一番難しいのです。なぜなら考え方がゆがんでいるから自分が直すべきだと気がつかないからです。どうしても相手が悪いと考えてしまうのです。そして人に永遠と説教をしたりもします。

我々僧侶の仲間もたくさんそのような人がいますし、私もまだそのようなところがあります。つい先日も離婚した前の奥さんと食事をしたときです。私は残念ながら離婚になってしまいましたが、あまりにも自分勝手な言い方をしたものですから、時間をおいてさっきの考え方はあまりにも自分勝手すぎるよ。少しは人のことも考えたほうがいいよ。と説教してしまったのです。そうしたら見る見るうちに態度が変わって、黙りこくって、食事の途中に席を立ってしまったのです。

私はまたやってしまった。つい身内のような気持ちになって油断した。人のことは黙っていればいいものを。これがあったから夫婦仲がだめになったのに。とおもいました。

充分注意して話したつもりですが、説教したがる癖が出てしまうのですね。夫婦はとくに気を付けなければいけません。身近にいつもいるのですから、あいての欠点もすぐにみえてしまい、少し気に食わなければ文句をいいます。どうしても相手が悪いと考えてしまうのです。他人に指を指すことがまた気持ち良いからです。なぜ他人が悪いと思うかといいますと、ひとのせいにすると自分の問題が隠せるからです。自分で自分の問題に気づかずにすむからです。

大体人間というものは他人にいつも指をさして「あなたが悪い」『あいつが悪い』というものです。他人の過ちは見やすい。というのがあのお釈迦さまの言葉なんです。

他人に指を指しても何も解決はしませんが。

会社でも「あの上司はいつも私を馬鹿にしていじめるのだ」と怒ったり、落ち込んだりします。もし上司を正そう、上司に説教しようとするならば、素足でスズメバチの巣を蹴ったようなものです。自分の心を直してしまえばすべてに勝つのです。

このように、頭でっかちになっても心は一向に成長していなかったのですが、そんなことがあったお陰で根本仏教を更に学ぼうと決心したのでした。

では次に、幸福について少し話しておきたいと思います。

皆さんは何があれば幸福だと思いますか。幸福の定義を少し考えてみましょう。

お金があれば幸せだ、と考えますか。ちがいますね。お金がなくても幸せな人はたくさんおりますね。それにお金がなければ幸せになれないなら、幸せになる人は少ないですね。お金持ちは少ないのですから。

では健康であれば幸せだ、と考えますか。でも本当に健康の人など少ししかいませんよね。どこかが悪いですからね。

次に頭がよければ幸せですか。それも違いますよね。 地位があれば幸せですか。地位があっても苦しむ人は多いですからね。また頭が良い人や地位のある人はそれもすくないですね。

美しければ幸せだ。そんなこともありませんね。美人で事件を起こす人も、悩む人もたくさんいますね。それに美しい人は少ないですね。

我々は世の中の少ないまれなものを見て、「私にもあれがあれば幸せだ」「私もこうであればしあわせだ」とかんがえています。宝くじが当たったら幸せだと考えるようなありえない話なんです。一般的な幸せの概念と言うものは「ありえないことがあれば幸せだ」というおかしな話なんです。日本にはありあまるほど何でも揃っていてもでも、心に幸せは見つからないのです。なぜかといえば、人間はそのありえないものから幸福を作ろうとしているからです。

人間はわがままです。しかしいかなる生命も完全に独立して、わがままに奔走に生きていくことは決してできません。生命には独立自由と言うのは成り立たないのです。私たちは自然の中で自然の法則に沿って生きているのです。自然法則に逆らった時点で死んでしまいます。ですから私たちは野生生活をしない限り社会システムの中の一員としてしか生きていけないのです。

おもしろいことに人間は幸福を目指すつもりで、自分を生かしている社会システムに戦いを挑むのです。自分を生かしている自然に攻撃をしているのです。それによって得られるのは悩み苦しみ悲しみに満ちた不幸なのです。

なぜそのような行きかたをするのかといえば、人間は『自分のことしか興味がない』「いついかなるときでもどんな条件でも自分こそ優先だ」もっと冷たく言えば「自分さえよければ人はどうでもよい」という偏った思考があるからです。

自分がよければいいという考えは人間の弱みです。それを仏教では自我・我といいます。

この自我性という病気を治すことが幸福になるための絶対的な条件です。「生命は皆、平等だ、私たちはわがままに生きることはできない。皆と調和を保つことで安全に生きられるのだ。すべての生命と調和を保つように努力するのだ」と思うべきなんです。そうすると幸福がひとりでに自分を包み込んでくれて幸福とは外にある別のものでなく、自分と一体のものであることに気づくのです。『生きとし、生きるものが、幸せでありますように』といつも思う心が、私たちを幸せに導くのです。

ですから、人や生命を攻撃するのではなく、『皆幸せになって欲しい』と思う気持ちを自分の中でそだてること。他の生命に対しての慈しみの心を育てることによって自分を苦しめる、怒りの心が消えて幸せになって行くのです。

『怒りを怒りで納めることは決してありえません。慈しみで怒りが消えます。これが普遍的な真理です。』ダンマパダ5

それでは最後に母親は子供たちに人間は「なんのために生きるのか」をどのように教えるべきかと考えてみましょう。

母親は子供たちに勉強をしなさいとよく言います。そんなときに、子供たちに、勉強しなければいけない理由として「それはお前が将来いい仕事について、安定した生活ができるように、良い学校に行ってきちんと勉強しなければいけないよ」と教えます。でもそれは、不幸な教えなのです。子供は「自分のために、自分が贅沢するために、自分のわがままのために学校へ行くのだ」と考え、『自分のためのわがままは良いことだ、自分が良い生活をするために、贅沢するために勉強するのだ』と思ってしまうのです。これではわがままをするために人生があるみたいになってしまいます。

そうではなく、『あなたが学校へ行って勉強をしなければ、皆が困るからね』と教えるのがいいのです。「現在のように素晴らしい世の中になったのは、お父さんたちが一生懸命勉強して、科学的な研究を重ねて、いろいろな人の役にたつものを作ったからです」

「あなたも勉強して大勢の人々の役に立つ人間にならなくてはだめです。ろくに考えず、適当に誰の役にも立たないような、あるいは社会に迷惑をかけるような人になったり、ただなんとなく生きて死ぬようならお母さんは悲しい。自分の贅沢やわがままを目指すのではなく、大勢の人を助けられる立派な人間になって欲しいのです。」とお母さんは教えるのです。

すると「勉強することはとても大事なことだ。この社会を守るため、人々を守るため、勉強するのだ。」と子供もなります。

先生たちも学校で子供たちに、やがて「自分が大きな木のようになって、いろいろな小さな生命を助けてあげられるような、そうゆう人間にみんななって欲しいな、」と教えてください。子供たちには自分が生きることが少しでも人の役にたつような、そんな人間に育ててもらいたいのです。それこそが何のために人は生きているのかの答えとなります。

人の役立つために、人のために生きられれば、それこそが誰からも愛されて、最大な幸せな生きかたとなるのです。

人間には年をとって、死ぬ瞬間までやることがあります。『会社をやめたらやることがないというならば、幸せな人生を歩んできたとは言えません』 定年になっても、おじいさんになってもやるべきことはいっぱいあるのです。経験のある人だから、立派な先輩だから仕事はあるのです。

子供の面倒を見る。地域の活動をする。人の手助けをする。そうゆう仕事をすると人生は素晴らしいものです。

死にかけているときでさえ、面倒を見てくれる人や、廻りにいる人にかけるやさしい言葉もあるはずです。

幸福とはこのように『私が生きていることに意味があります』と思う充実感なのです。充実感、満足感こそが幸せな心なんです。

どうかみなさまも、最後の最後まで、「自分が生きていることは意味がある。多くの人を助け、人に必要とされている」とそんな人生で幕を閉じてください。

以上で私の話は終わります。また機会がありましたらお会いしましょう。

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