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やがて私は40歳になり、比叡山に上って正式に天台宗の僧侶となってしまうのですが、その後46歳のときにテーラワーダ仏教、上座仏教という仏教の僧侶、正確には比丘に出会いまた人生が変わりました。
その比丘の法話を聞き、感動して一緒に暫くのあいだ茨城の大洋村で生活をさせていただいたことがあったのですが、そのときの出来事です。そこは瞑想道場のようなところでしたので、毎朝パーリ語の勤行のあとに必ず来た人は瞑想をします。
あるとき一人の男性がきましてその方は、勤行が終わると一人瞑想もせずに逃げるように出て行ったしまうのですね。外に行って散歩をしているのです。
あとで、わかったことですが、その方は座ると眠くなるので歩行瞑想をしていたのでしたが、そうは知らずに私は先生に文句を言いました。みんなの秩序を乱すと思ったからなんですが、「なぜあの人は瞑想をやらないのですか。ここは瞑想道場でしょう。それならば時間どうりやったらいかがでしょうか。一人だけ時間を守らないと言うのでは決まりがつきません。それは困ります。」と言ったのです。
すると先生は、「人のことはほっておきなさい。人のことで文句を言う前に自分の心を調べなさい。いまあなたの心は怒っています。その怒りのこころに気づいてください。仏教は自分を直すものであって人を直すものではないのです。」といわれたのです。
私はまだ納得がいきませんでした。日本流に考えれば、団体の規則を守らないほうが悪いに決まっています。それなのになぜ先生は私を咎めるのか。なぜ相手に注意をしないのか、とそのように思っておりました。
そのわたしの心を見ぬくように先生は違う方向から言われました。「なぜあなたは怒っているのですか。怒ると言うことは苦しいことでしょう。なぜ人はいつも苦しんで生きているのでしょうか。
それは人は文句を言う癖がついているからです。口に出して言うのではなく、心の中で皆、文句を言っています。「暑い」「うるさい」「まずい」「汚い」「せますぎる」「大きすぎる」「間違っている」「つかれた」「淋しい」「忙しい」
文句を言ったから苦しくなるのではなく、文句が頭の中にある性格が人を苦しめるのです。
「自分の人生を幸せにしたければ、第1に気を付けなければならないことは文句人生にならないこと。世の中は自分の思いどうりにならないのが普通です。逆に思いどうりになることのほうが不思議です。いつでも気に入らないことがたくさんあります。はっきり言えばほとんど全部何もかも気に入らないことだらけなのです。」
「同じ部屋にいても、ある人は『冷房が効きすぎ』と文句をいい。ある人は「冷房が弱すぎ」という。楽しく暮らしたければ『何一つ自分に都合がいいように運ぶわけがない。気に入らないのが当たり前だ』と知ることです。これをどう乗り越えるのかは私次第、私の見方次第なんだと考えるのが正しいのです。」
文句を言う場合、「これは私にとっては都合が悪いのだから、私のためになんとかしなさい」という気持ちなんです。「この寒さでは何もできないよ。外へ行くのはいやだ。」と天気に文句をいいます。『私が嫌だから暑くなりなさい』と自分が神様より偉いと言う態度。
他人に文句を言う人は『私が嫌だから、あなたはそれをやめなさい。』「みんな私の機嫌を取りなさい」と言っているのです。文句を言う人の性格は『世の中すべてのものが自分中心に廻ってほしい』と思いたがるのです。
自然も他人も自分の思いどうりに動くと言うことは決してありえないのです。
文句を言う、性格を変えることは、一般の人々にとってはなかなか超えられないハンデがあって、それでなかなか幸福になれないのです。そのハンデとはそれは『自分が正しい』と頑固に思っていることです。「自分の生活だけは絶対に捨てない」とものすごく強くしがみ付いているのです。
仏教は外の世界を変化させるのでなく、自分の人格を成長させるのです。「自分の心を発展させよう。自分のこころがいつまでも成長するようにしよう。」と決めてください。
といわれ、次のお経をとかれたのです。
「他人の過ちばかりを考えつづけ、常に文句を言いたい気持ちでいる。その人の心に汚れが繁殖する。清らかな境地からははなはだ遠い」ダンマパダ253
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