私の仏教、瞑想修行

 

照智一生と申します。私は平成元年僧侶となりました。会社を経営していた二十六歳の時に仏教に縁ができ、毎週土曜日・日曜日は欠かさず寺に通い仏教の勉強を続けるようになり、四十になったら僧侶になろうと決心して、四十になった時に会社を辞め、比叡山で得度して僧侶となったわけです。

しかし、今日これからお話するのは私の日本の僧侶としての仏教体験ではなく、多分皆さんが初めて聞くであろう原始仏教の修業体験の話なのです。この六、七年私はテーラワーダ仏教というものを日本に伝える運動をしてまいりました。

テーラワーダ仏教といっても、皆さんはあまり聞いたことがないと思いますが、日本では初期仏教、根本仏教、原始仏教、上座仏教などと呼ばれるものです。また間違った呼び方ですが、小乗仏教と言われることもあります。

天台宗の僧侶として大乗仏教を説かないで、小乗仏教など説くなんて、と誤解して言われることがありますが、仏教はお釈迦さまが説かれた教えです。それならばお釈迦さま直伝の教えを説くことこそ仏教を伝えるものの使命だと私は思っています。

日本では祖師大師によって作られた宗派があり、宗派ごとに教えが若干違うのですが、教えが違うと言うことは個々の解釈がそこに入っているということです。お釈迦さまの直接の教えではないわけですから仕方がないと言えますが、お釈迦さまの直伝の原始仏教はそうではありません。すべての教えがお釈迦さまが説かれたとはっきりしているのです。

ですから、今日は原点に帰ってお釈迦さまが使っていたであろうといわれるパーリ語のお経を唱えるとこから始めたいと思います。

パーリ語というのはお釈迦さまがじかに使っていた言葉だと言われていますが、仏教では他に有名なサンスクリット語というのがあります。サンスクリット語は言葉として使っていたものではなく、現在お医者さんがカルテにわざわざラテン語を使うようなもので、特別な宗教語として権威を持って使用していたようなのです。経典として書かれたために、後世に様々なサンスクリット経典が勝手に作られ、逆に仏教が混乱して何がお釈迦さまの教えなのか分からなくなってしまったという歴史もあります。法華経などもその一つであろうと言われています。

その点、パーリ語の経典は日常的にお釈迦さまが使っていた言葉を、そのまま口伝として何万人もの僧侶たちが暗記して覚えて行ったものですから、新しく経典が出来る余地がなかったといえます。そのためお釈迦さまの根本の教えを学ぶならば、パーリ語の経典から学ぶべきで、お釈迦さまの法をそのまま伝えたというものが根本仏教、上座仏教と現在呼ばれるものなのです。

それでは皆さんご一緒に声を出して唱えてみましょう。

ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サッマー サンブッダッサ。
私は阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に礼拝いたします。 (3回繰り返す)

  • ブッダム サラナム ガッチャーミ(私は仏陀に帰依致します)
  • ダッマム サラナム ガッチャーミ(私は法・真理に帰依致します)
  • サンガム サラナム ガッチャーミ(私は僧・聖者の僧団に帰依致します)
  • ドウティアムピ ブッダム サラナム ガッチャーミ(再び私は仏陀に帰依致します)
  • ドウティヤムピ ダッマム サラナム ガッチャーミ(再び私は法に帰依致します)
  • ドウティヤムピ サンガム サラナム ガッチャーミ(再び私は聖者に帰依致します)
  • タティヤムピ ブッダム サラナム ガッチャーミ(三度私は仏陀に帰依致します)
  • タティヤムピ ダッマム サラナム ガッチャーミ(三度私は法に帰依致します)
  • タティヤムピ サンガム サラナム ガッチャーミ(三度私は聖者に帰依致します)

パーリ語の礼拝、三帰依から始めましたが、原始仏教というのはパーリ語を基にした教えであり、今までほとんど日本に伝えられていなかったお釈迦さまの直伝の教えなんです。日本では大乗仏教が伝えられたと言われておりますが、お釈迦さまの教えには実際は大乗も小乗もありません。逆に大乗経典と言うものは、ほとんどがお釈迦さまの死後に書かれたものであり、お釈迦さまの直接の教えではないのです。大乗経典はお釈迦さまが直接説かれた教えではありませんから、どうしてもその人の意見が入ってしまって、却って混乱を招くことになってしまったのです。

大乗仏教そのものは信仰を基本とした教えであり、一般の人々にもなじみやすいところがたくさんあるのですが、お釈迦さまの教えとは縁遠いものとなってしまい、お釈迦さまそのものの根本の教えというのはあまり日本に伝わっていなかったというのが日本の仏教の現状なのです。

ですからこれから話すことは多分皆さんがはじめて耳にする仏教なのかもしれません。仏教というのは皆さんご存知の通り「仏・仏陀」と言われる人の教えですよね。仏陀という意味は悟りを得たとか、知恵があるとか、真理に通じたという言葉です。要するに仏陀の教えとは、悟りを得た人の教え、解脱した人の教え、真理を悟った人の教えということであります。そして、真理を悟った最初の人がこの地球上ではお釈迦さまですから、その最初に悟ったお釈迦さまだけを尊敬を込めて仏陀とお呼びしているのであり、その仏陀の教えだから仏教というのです。

つまり仏教というのはお釈迦さまの伝えた教えであって、竜樹世親、またまた最澄さんや日蓮さん、道元さんなどのそういう人たちの教えというわけではないのです。ですから仏教を学ぶと言うことはお釈迦さまの教えそのものを学ぶということであり、パーリ語で書かれた経典を学ぶことが必要となってくるのです。

私自身、テーラワーダ仏教がお釈迦さまの直接の教えだと知ったときは、天地がひっくり返るようなそんな気持ちがしたものですが、そんな気持ちを理解していただくために、まず大乗仏教と出会ったところからお話して参りたいとおもいます。

私が大乗仏教に最初に出会ったのは、二十六歳のときでした。現在57才になりますから、30年ほど前になりますか、浅草に金田道跡先生という大変哲学的な先生がおりまして、そこで初めて仏教というものを知ったわけです。

それまでの私は宗教など弱い人がやるものだとばかり軽視していましたし、宗教と言うだけで毛嫌いしていたところがあります。まだ若いですし、会社も自分で経営しておりましたので、仏教であろうと宗教と名がつくものはみんな嫌いだったのです。自分の力だけでなんとでもなると思っていたのですね。

友人に変わった僧侶がいると聞いてはじめて寺へ行ってみました。それまで仏教を含め、すべての宗教は信仰だと思っていましたから、世の中が信仰によって救われるとか、自分が幸せになるなどと言うことがどうしても信じられなかったのです。

金田先生に出会って、最初におゃと思ったのは「信じても何も救われないよ」という一言でした。

この世界では原因を造ることによってしか結果は現れない。信仰しても救われないよ、と最初にいわれたことでした。ものごとはすべてに原因があって結果がある、という教えで、信仰すれば幸せになる、などとは一言も言わなかったのです。つまり自分がいま受けている結果が良ければ自分が以前作った原因が良いのであり、いま受けている結果が悪ければ自分で以前作った原因が悪いからだと言われるのです。善因善果・悪因悪果という因果法則の教えです。どんなものでも原因と結果があるんだよ、ということなのです。

因果論は大乗仏教もテーラワーダ仏教も同じようにすべてに因があって果があるというのですが、カルマ(業)論における考え方に大乗仏教と根本仏教の相違があるように思います。

例えば、何か事故にあったとします。大乗の因果論では事故に遭うべきカルマとくに悪因が今世か前世にあったからだと説くことが多いのですが、テーラワーダではカルマも事故の原因の一つに過ぎないのであり、カルマかどうかは分からない。分からないことをカルマとは論ずるべきではなく、そこに用事で行った人がいて、車がきた、車の不注意があり又は本人の不注意により、事故に遭った。ただそれだけですと説きます。

人間の考えること、しゃべったこと、見たこと、感じたこと、行動したこと、すべてをカルマ(業)と説くのがテーラワーダであり、そこには善や悪の区別はありません。

ただ、欲で行ったか、欲から離れていたか、怒りか慈悲か、嫉妬か親切かなどの心の区別は存在しますし、それによって同じ行為をしてもカルマは変化します。

大乗仏教のカルマ論はすべての悪果をカルマのせいにしてしまうことで、例えば人が通り魔に殺されてもそれはカルマであると解きますが、それは正確とはいえません。カルマかカルマでないかはお釈迦さましか分からないものなのです。

ともあれ、最初に習った仏教が因果論であり、何かを行えば何かがあるよ、と言う言葉だけが強烈に残りました。良い結果を得たければ善い原因を作れば良いんだと覚えたわけなのです。これは私にとってそれからの人生を生きる上で大正解でした。棚からぼた餅を期待しなくなりました。それと同時に悪い結果に結びつく悪い行いは止めようと決心したのです。

それまではまったく好き勝手な事をして生きてきました。ギャンブルに酒に女にと、若くして会社を作って自分で自由なことやっていましたもんですから、神も仏も宗教もないわけです。何でも自分の思うようになるというような人生の生き方をずっとしてきたわけです。ただ遊ぶため、快楽を求めるためだけに懸命に仕事をしてきたわけです。

それが、それじゃ何か悪い事をすれば悪い結果があるのかなあ。いいことをすればいい結果があるのかなあ、というようなことをおぼろげながら、そういうようなものなのかなあ、というように一応理解したのです。それをきっかけにして仏教というものを学んでみようと思ったのが二十六歳だったのです。

それからは土・日曜は毎週朝早くからお寺に行き、夜遅くまで、仏教の勉強と勤行や座禅などの修行を行っておりました。家に帰ってからは阿弥陀経を毎日勤行しておりましたが、だんだん法華経に移りまして、毎朝一時間ほど法華経をあげ、仕事へ行って帰ってきてそれから法華経のお写経と、法華経の勉強を毎日行い、寝る前に坐禅をして寝るという、法華行者のような生活を十年以上続けてまいりました。

仏教を勉強しているうちに、いずれ僧侶になりたいとずっと思っていましたものですから、四十になった機会に一旦会社を辞め、比叡山に登ってやっと僧侶になったというような次第なのです。

比叡山には1年ほどいたのですが、比叡山で師匠となって頂いた先生が、山を降りることになり、私も東京へ戻ることにいたしました。東京へ戻って仕事と勉強を再開したとたんに大変なことが起こりました。突然、浅草の金田先生が心筋梗塞で急死してしまったのです。先生が急死したことは不幸な出来事でしたが、師匠を失ったことが私の新しい道のはじまりでもあったのです。

私は十数年難しい仏教哲学ばかりをさかんに勉強したものですから、どこへ行っても物足りなさを感じ、もう師匠を求めることはあきらめておりました。

そこに黄色の衣を着つけた比丘と言われるスリランカの僧侶にはじめてお会いしたわけなのです。日本の僧侶とは随分違うわけです。日本の場合は和服のような黒染めの道服に輪袈裟を着け、葬儀などは金ぴかの五條などを着けています。テーラワーダの比丘はただ黄色っぽい一枚の布を右肩をだして身に着けているだけです。

出会って私が最初に思ったことは、この人たちはかわいそうな人だ。小乗仏教しか知らなくて、お釈迦さまの真髄である大乗仏教を知らない。折角の機会だから、何とか私が大乗仏教の素晴らしさを教えて、大乗仏教に変えさせてあげよう。とそのような今思えばまったく無恥で高慢な考えで近づいていったのです。

その比丘を招いて、二年程勉強会と称して数人が月1度集まっておりました。上座仏教の勉強会の形ではありましたが、私としては何とかして大乗仏教を理解してもらおうと毎回論争をしかけました。大乗仏教はすばらしいのに何でわかってくれないのかともどかしく感じていましたが、2年ほど勉強してはっきりしたことは、仏教といえどもまったく違うものであるということだけは飲みこめたのです。

しかし2年勉強してもまだ、大乗仏教だけが正しい仏教であると言う独善的な考えからは抜け出せませんでした。大乗仏教以外の正しい仏教がこの世の中にあることが信じられなかったのです。

だが、あまりにそのスリランカ僧の生活態度が素晴らしかったので、なぜそれほど自信がある生活が出来るのか。その僧の揺るぎ無い自信はどこから来るのか、自分で少し確かめてみようと思ったのです。

日本にはあまりにもたくさんの経典があり、あまりにもたくさんの教えがありすぎます。だからどれが本当なのか経典の上では分かりません。2年勉強してまったく教えが擦り合わないのですから、そこで確かめるために経典を比較することは止め、お釈迦さまの遺された解脱・悟りのためのヴィパサナー瞑想というものを自分で体験してみようと考えたわけなのです。結果的に言えば、この体験こそが私を真のお釈迦さまの教えの道へと導いたことになります。

私は長年大乗仏教の勉強をしてまいりました。理論的にはどうやっても負けないつもりですが、上座仏教の勉強をすればするほどどんどん迷ってしまったのです。それで勉強はやめて、実践すればすぐに結果が分かると言われた、ヴィパサナー瞑想を体験しようと思ったのです。

大乗仏教は日本をはじめ、韓国や中国、何億と言う人々が信じている宗教です。それが違うわけがない。もし違っていたならば私が学んだ20数年間は無駄になってしまう、そんな危機感がありました。

何億という人が大乗仏教を信じているわけですから、絶対に正しいと思っていたのですが、いま思えば、大学院へ入る人は少ないのが当たり前であり、中学までは誰もが行くのです。 まさに大乗仏教は一般大衆向けで、テーラワーダ仏教は修行をしない限り、エリートの大  学院生向けの勉強と言えます。それがわかるのはずっとあとからですが。

お釈迦さまの本当の教えはどこにあるの。お釈迦さまの本当の教えを知りたいんだと必死になって私は願いました。真理を教えてほしいと、真剣でした。毎日毎日、仏像に手を合わせ、必死にお願いしておりました。何がほんとうの仏教なのか。何がお釈迦さまの真実の教えなのか。お釈迦さまは一体何を我々に残したのか、それを知りたいと真剣でした。

ヴィパサナー瞑想を始めて半年ほど経った頃、心にある変化が芽生えてきました。頭が毎日さえてきたと言うのか、自分の行動が冷静になってきたような気がします。そんなある日、スリランカへ来ないかという話が一時帰国する長老から持ち上がりました。いままで小乗仏教とばかり思っていた仏教がどのようなものか、実際に私は知っているわけではありません。ぜひ行って、比丘となって寺の生活も体験したいと思ったのです。

はじめて見るスリランカの仏教やお寺の実態は驚くべきものでした。日本で考えていた小乗仏教とはあまりにも違うのです。私は最初、スリランカは小乗仏教だから比丘は皆、一人で山の上へ入って修行し、下りてこないのだろうと思っておりました。大乗仏教のことも何も知らないんだろうと思っていたのですが、すべて覆されたのです。

スリランカの寺には毎日一般の人々がひっきりなしに訪ねてきます。寺は町の中心にたくさんあって、僧侶も町に大勢おります。人々の生活の中心はすべてお寺であり、庶民の暮らしはお寺を離れては考えられません。それでいて僧たちは自分の私有物と言うものは何一つ持たないで、身一つで一生独身生活をしています。つまりいまでもお釈迦さまの教えに基づいて皆、生活しているのです。

それを見て私自身も恥ずかしくなりました。日本の僧侶やお寺は一体何をしているのか。お坊さんたち、われわれもそうですが、一体何をしているのだろう。生活のために葬儀や法事だけを行って、お釈迦さまの仏教はいったいどこにあるのか。大乗仏教と称し、家族を持ち生活のために仏教を使っているのではないのか。お釈迦さまの教えはどこへ行ってしまったのか。

何でこんなに皆に仏教が浸透して親しまれているのか。日本で言われている大乗仏教がほんとうに仏教なのかと、疑問も持ちました。そしてその比丘達のすばらしさ。日本の僧侶はほとんどが妻帯しているが、比丘は妻帯もせず一生独身でいる。お酒も飲まないし、午後になると食事もしない。欲から離れることを目的として、自分で厳しく律して生活している。

自分の身体をもって自分の欲から離れようとしている比丘の姿というのを観て、つくづく日本の仏教との違いを感じたわけなのです。

それと大勢の一般の人達がいつでもそういうものを、一緒に学んで一緒に修行しているわけです。日本とはえらい違いです。お釈迦さまの時代も、法を説いて人々が集まってそこで一緒に修行をして、ということを比丘と人々はたんたんとやっていたわけですね。今でもまさにそういうのがスリランカの仏教であったのです。カルチャーショツクを受けました。見ると聞くのとでは大違い。あれほど一般の人々までもが仏教に親しんでいるとは想像も出来ませんでした。

スリランカで一ヶ月ほど寺の見習い僧である沙弥となって滞在した後、帰国してまず考えたことは、これは何でも見てみなければわからない。日本で聞いていた仏教とはまったく違う。お釈迦さまの修行法をもう一度きちんとしなおそう。お釈迦さまの修行法であるヴィパサナー瞑想をきちんとやってみてから、何が正しいのかの結論を出そう、と考えたのです。

ヴィパサナー瞑想を修行するためには、日本にいては出来ません。先生もいなければ場所もありません。先に行ったスリランカには、外国人向けのよい道場がありませんでした。

そこで修行先は外国人をも受け入れている、タイかミャンマーかまたはイギリスかとも考えましたが、たまたまミャンマーから一人の長老が日本へ来たことを聞いて、会いに行ったことが私とミャンマーとの接点になったのです。

ミャンマーの長老はこころよく私がミャンマーで修行する手助けを承知してくれたのです。修行したいと考えた時にそのようなミャンマーの長老に縁ができ、まるで仏に導かれるように、それじゃミャンマーに行ってみようとなったわけですから不思議です。

その頃ですから日本人でミャンマーへ行って修行しようとなど考える僧侶もいませんし、一般の人もいないわけです。今から10年程前ですから。

半年間は最低修行するつもりで、翌年の一月にミャンマーへ出発しました。飛行場には長老自らが迎えに来ておりました。はじめてミャンマーへ降り立ったとき、まるで日本の50年前を見ているような気がしたものです。大きなビルもないし町に灯りがありません。

私は2、3日街を見学するつもりで、ロッジに泊まることにしました。修行したあとでは見学する気も起こらないだろうと思っていたからです。

明くる日、長老の寺を訪ねました。寺といっても日本と違って墓があるわけではありません。要するに何人かの僧侶が生活している家なのです。サンガというのは僧、比丘の集まりという意味ですが、五人以上の比丘が集まって生活している形態、それをサンガと言います。

お釈迦さまの時代は、サンガとは比丘の集団のことであり、その集団の生活の場所でもあり、そして、修行の場所でもあったと思われますが、現在の上座仏教国はどこでも比丘が修行する道場と生活の寺は区別されております。そのため比丘であっても瞑想修行のためにはヴィパサナー道場へ入ったり、森や洞窟で一人で生活し、修行をしています。一般のお寺は比丘の生活の場所となり、多くの人々が訪問しますから本格的な修行はやはりやりにくいものなのです。

ミャンマーには大きな修行道場がいくつもあるのですが、私が撰んだのはマハシというヤンゴン最大の瞑想道場でした。日本でマハシの瞑想法と言う本を読んで修業していたことにもよります。

マハシ道場は町の中心から十五分か二十分くらい。飛行場から町へ行く途中にあるのですが、常時300名くらいの修行者がおりました。比丘が約百名くらいで、あと200名が一般の人です。そのうち150名ほどが女性で、どこの道場でも大体、男性より女性の方が多いのが普通です。

修行するということは上座仏教の人々にとっては、ごく身近な日常的なもので、比丘になるという事もミャンマーやスリランカやタイでは日常的なものです。ただスリランカだけは一生比丘を続けるという決意の人たちだけが比丘になっていきますが、ミャンマーやタイは一時比丘という制度があり、誰でもすぐに比丘になれます。ミャンマーでも比丘になりたいということで行くと一日でも比丘となって修行できるわけですし、もちろん一ヶ月でも一年でも一生でも構いません。ミャンマーの男性は誰でも一生のうち二回出家しなさいと言われているほどです。

お釈迦さまの子供であるラーフラが出家したのと同じ六歳の時と、成人の二十歳になってからの二回、出家しなさいというふうに言われております。

出家して何をするのかといいますと大体修行をします。瞑想の修行をいたします。ですから誰でも坊さんやお寺というものに縁があります。タイでも同じです。タイも男性であれば、社会に出た以上は必ず1度は出家しなければ社会から認めてもらえません。必ず男性は出家する。一ヶ月でも半年でも一年でもいいんです。坊さんになって黄色の衣を着て托鉢に行って、という生活を必ずやってくるわけです。ですからお寺と人々の生活というものは密接したつながりを持っているんですね。誰でも男性であれば一度は比丘となって出家しますし、女性は修行したり仏教を支える方に回ります。私もヤンゴンのマハシ瞑想道場では六ヶ月ほど比丘となって修行したものです。

ミャンマーやタイは特に比丘と一般の人々との待遇の違いを感じます。私自身、日本の僧侶ですと言っても何も気にもとめないというか、ミャンマーでは在家と同じ扱いなんです。大乗仏教の僧侶は比丘ではありませんから、テーラワーダ仏教から見たら僧侶扱いではないのです。まったく、一般の人々と同じなのです。

ミャンマーでは一般の人々と比丘が同じテーブルで食事をすることはありません。僧侶はべつの席にあって一般の人と同じテーブルで食べてはいけないらしいのですけど、私も僧侶ですから最初外国人の比丘たちの仲間に入るのかと思っておりましたら、一般のミャンマーの人々と同じ席に座らされ、何でだろうと思ったものです。比丘戒を受けなければ、比丘ではないのです。

一ヶ月くらいして、修行になれてきたところで私も比丘になりましたが、比丘になると言っても日本のようにお金がかかるわけではありません。衣や鉢など比丘に必要なものは頼めばすべて用意してくれます。私の場合は、ミャンマー人のスポンサーの人がすべて喜んで用意してくれました。瞑想者を助けることはお釈迦さまを助けるに等しいと言う言い伝えがあると言うことなのです。

宿泊所は外国人向けの二畳ぐらいの個室がありました。そのころ個室があるのはマハシ道場だけでしたから、修行環境としては一番恵まれていました。いまは外国人向けの修業道場や宿舎がミャンマーにはどんどん出来て便利になっておりますが、そのころは個室があるのはマハシ道場だけだったのです。

道場の部屋で最初びっくりしたのは、夜になるとヤモリがたくさんいることでした。天井を見ているとヤモリが何匹も這い回っております。それが、寝ていると顔の上に落ちてきたりなんかするのです。びっくりしましたけど、蚊帳をつって解決しました。そういえばどこの家へ行ってもヤモリだけはたくさんいるというのを始めて経験しましたね。日本ではまったく考えられないことですが。

アリも、部屋の中にたくさんいました。ジュースを飲んで机の上に飲みかけのコップを置いておくと三十分しないうちにコップが真っ黒になってしまいましたから、アリで。

アリやヤモリを除けば、比丘としての修行生活は快適でした。道場の生活というのは朝三時に起きて五時に朝食。朝食はミャンマー名物のモヒンガーという麺類が多かったですけど、とてもおいしかったですね。お昼は十一時から食事。比丘は十二時までに食事を終わらければならないのです。午後は托鉢に行かずに修行に専念しろということで、食事はできません。実際のところ午後に食事をすれば、修行に差し支えることはすぐに分かります。午後に食事をしないということなどは、すぐに慣れますから何でもないことです。

ミャンマーという国は実は大変貧しい国です。一般的な公務員や店員さんの給料というのは大体月に五千円くらいです。日本から考えると大変貧しいのですけど、しかし私が感激したことがあるのです。比丘となると朝托鉢に行くことがあります。マハシでは比丘に托鉢を強制してはいませんが、托鉢に行く比丘もおりますので、私も経験のために何回か一緒に行きました。朝托鉢をしていますと、いまにも潰れそうな古く貧しい家がたくさんあります。台風がきたら潰れるんじゃないかと思うような家がたくさんあって、貧しいとは思うのですが、でもそういう人達がみんな朝比丘を待っていて、ご飯、お菓子、果物とお鉢に次々に入れてくれるんです。自分たちの食事で精一杯だとおもうような人々が、功徳になるからと食事の供養を喜んで行っているのです。上座仏教の底の深さを感じます。日本では考えられないですが。

しかし、お金がなくてもそうした人達の方が日本人より悩みが少なくて、幸福に毎日を生き生きと、生きている気がしました。日本人はミャンマーの人たちよりもはるかに金もちです。日本人は経済的にも恵まれていますし、何不自由ない世界で生きているように見えます。平均的なミャンマーの人達は日本と比較すれば、収入も少ないですし、娯楽もあまりありません。けれども、朝から布施をするその人達の方がなぜか、日本人よりも幸せそうに見えるのです。

欧米人、日本人、アジア人などの金持ちの国々の修行者たちが、最貧国であるミャンマーの貧しい人達に支えられて修行している図式ですが、どちらが幸せかとみれば、はっきり言って、何もない、その人達の方がはるかに幸せだろうなと私は感じました。

お金がなくても、テレビがなくても、朝もう四時になれば皆起きてきて、暗いうちから動いて仕事をしています。夜がくれれば皆寝てしまうでしょう。しょっちゅう停電になるし、電気なんてこないのも同じです。一日中停電なんてことも度々ありました。ローソクとまきで生活しているわけです。それで何か不足があるかというと何も不足がないのです。ご飯を食べられて、お天とう様があって、共に皆仲良く生きて健康であれば充分。あと何がいるの、という感じになってくるのです。

日本の戦前みたいでしょう。何もなくても、皆で助け合って明るく生きている。ですから、経済が発展するから、幸せだとは言えないのです。

だからそのような観点から見ると、日本が幸せだとか、どこが幸せだとか言えないというのがよく分かると思います。貧乏でも心豊かな人達のお陰で、修行者が支えられ、仏教が支えられているわけです。否、心豊かだからこそ、幸せだからこそ、仏教が残ったと言えるのかもしれません。仏教からみれば、ミャンマーはすごい国です。

私は経済的に見て、なぜ仏教国が発展しないのか、ということを考えていたのですが、結論として要するにあまり経済的な発展を好まないんです。文化を壊したくないというのか、急激に発展してしまう事によってあらゆるものが破滅、破壊していくわけです。木を破壊する、土地を破壊する、生命を破壊する。経済が発展することによってどんどん文化が破壊していく。仏教国の考え方は、それよりも、少しずつ少しずつ行く方が皆がより幸せに生きていけるという法則なんです。ですからあまり発展することを喜ばない。経済が発展して便利になったから、だからどうなの、というようなものなんですね。経済的な発展が決して幸せになる条件とは言えないんです。それをよく知っているのです。

我々とその人達と比べてどっちが幸せかと言えば、その人達の方が心配もないし悩みもないし、苦しみもないので、一日が充実して生きているかも知れません。お金がなくても生活にはたいして関係ないんだし、どっちがいいんでしょうか。分からないでしょう。だからそれらの仏教中心の心に、幸せ感というものが生きてきているわけです。仏教国のすばらしさはそういう所にあるのではないかというふうに私は思います。

ミャンマーと比べますと、現在のタイは若干発展しすぎてしまいました。西洋文化が入りすぎてしまい日本と何ら変わりのない状況になっております。十年ほど前は非常に貧しかったのですが、いまのタイは経済的にも恵まれてきました。そうしますと、お寺に対する信仰というものが非常に強いですから、たくさんのお金がお寺に集まることになります。お寺にお金が集まれば、個人的にお金を持っている比丘も出てくるわけです。そうしますと、何年か比丘になってお金を貯めて、在家に戻るというような僧侶も現れるのです。仏教はあまり経済的に発展しすぎると乱れて行くのです。

乱れないように戒律だけはタイでは厳しく言います。非常に厳しく戒律だけは言うんです。女性に手を触れちゃいけないとか、隣に座ってはいけないとか、お金に触れてはいけないとか、なにしちゃいけない、これしちゃいけないとかね、戒律だけはタイは厳しいんです。でも、偉いお坊さんになるとお付きの人がたくさんいて、その人たちがお金を管理をしていますから、実際にはお金をたくさん持っているのと同じだという僧侶もいるのです。経済が発展することはこのような弊害もあるのです。

戒律のタイと比較して、ミャンマーは論部のミャンマー。アビダルマのミャンマーというふうに呼ばれております。また、修行体系が一番しっかりしているのも特長です。ミャンマーは国をあげてアビダルマというものを基準にした比丘の試験もありますので、小さい沙弥のときから必死でアビダルマの経典を暗記しています。

またスリランカの仏教の特長は経典のスリランカ、法のスリランカというふうに言われ、お釈迦さまの教え遺された経典をできるだけ勉強し、学ぼうというのが見うけられます。同じ上座仏教の国ですが、それぞれ特徴があります。しかし、勉強していることは仏陀の教え、お釈迦さまの教えそのものであり、そして比丘の行っていることは、皆をお釈迦さまに如何につなげるか、という事なんです。

日本では道元禅師や天台大師や親鸞上人の教えを学ぶとか、そういうことをやっておりますが上座仏教の国々はそのようなことはなく、すべてをお釈迦さまに繋げようとしているわけです。お釈迦さまの教え以上のものはないことをよく知っていますから、すべてをお釈迦さまにつなげていこうとするのが普通なのです。自分がという形はないのです。私の教えはどうだということもないのです。お釈迦さまの教えはこうだからお釈迦さまの方へとどうぞ向いて下さいというふうな形で、お釈迦さまにつなげよう、というのが僧である比丘の役目であるのです。

ですから上座仏教の国では仏教は一般の人からも好かれておりますし、支持されています。タイもミャンマーもスリランカも90%が仏教徒であり、大乗仏教も入っては来たのですがほとんど消えてしまいました。キリスト教やイスラム教など他のものは余りないのです。皆仏教徒です。そのような状況で生活しているのです。

大乗仏教と上座仏教の大きな相違はその修行法にあります。日本では修行というと滝に打たれたりとか、山道を歩き回ったりとか、護摩を焚いたりとか、真言をとなえたりと、様々なものがあります。上座仏教の修行方法は「シャマタ・ビバサナ」。日本語では「止」と「観」の二つです。多分皆さまも聞いた事があると思いますが、止観と普通言いますね。日本では「止」と「観」を一つにして止観行といっております。天台宗でも止観行と言うのですけど、座禅して呼吸を数えたりします。

パーリ語では「サマタ」止と「ヴィパサナー」観と言い、止と観の二つの別の修行方法を意味します。

止は一つのものに集中するという意味で、観は観察するという意味になります。これが仏教の修行方法であり、お釈迦さまが修行をした方法なのです。

「サマタ」の止法は実はお釈迦さまが発見した修行方法ではなく、お釈迦さまが悟りを開かれる以前から、インドでは修行と言えばサマタ瞑想でした。当然ヒンズー教やジャイナ教の修行方法もサマタ瞑想であり、お釈迦さまもサマタ瞑想から修行をしていかれたのです。現在のヨーガ瞑想や座禅もサマタ瞑想になります。

そしてお釈迦さまが最終的に発見した解脱のための修行方法、智慧の修行方法というのは「ヴィパサナー」という、「観」の修行方法なんです。止と観は方法が違う別の二つの修行方法なのです。

サマタ瞑想は止法といいますが、止法の止は止めると書きます。これはある対象があってその対象に一つになるという、対象に止めるという意味なのです。

日本の座禅もサマタ瞑想であり、念仏三昧になるのもサマタ瞑想であり、ヨーガの修行方法はすべてサマタ瞑想になります。サマタの対象は36種あるといわれています。数を数えたり、壁を見たり、何も考えないようにしたり、呼吸を見たり、ローソクの炎を見つめたり、死体をみたりというのもあります。

お釈迦さまが最初に行った修行もサマタ瞑想でした。ヒンズー教やジャイナ教のすべての修行方法はサマタから入ります。あらゆる方法がこの方法であったわけです。お釈迦さまは出家して最初にバラモンやジャイナ教の修行をするわけです。そのころの修行者の修行方法は荒行というか苦行がほとんどであり、身体を苦しめることによって、心が身体からの執着を離れるというものでした。どこまで身体を痛めるのかと言う問題がありますが、結局は死ぬまで身体を痛めるということになります。ですから、生きているうちに解脱は得られない、死んでからと言うことにもなるわけなんです。

そこでこの方法でお釈迦さまも修行するのですけど、お釈迦さまは何度も何度も死ぬ寸前まで自分の身体を痛めてみて、そして、これでは最終的な解脱、悟りは得られないという結論に達するのです。

これが悟りなんだ。これが解脱なんだと、時の指導者が皆、言っているのですが、実際はそうではないという事をお釈迦さまはすべてを試して解ったのです。そして、ついにサマタ瞑想では得られない絶対の安楽の境地である解脱までの修行方法を発見し、完全な解脱の境地を体験なされるわけです。それが悟りの瞑想法であり解脱のための唯一の方法である、ヴィパサナー瞑想と言われるものなのです。ですから、本来仏教の瞑想法というものはヴィパサナー瞑想法と言うことになるのです。

お釈迦さまはこの「ヴィパサナー」という智慧の瞑想方法なるものを自ら発見し、悟っていくわけですが、「ヴィ」は詳細にとか詳しくという意味があり、「パサナー」とは観察する、観ると言う意味があります。詳細に観察するということになりますが、何を観察するのかと言えば、観察する対象は自分の心と身体。「身・受・心・法」の四つの対象を観察するのです。それでは、身・受・心・法の四つを簡単に説明してみましょう。

身の観察方法は歩いているならば歩いている足を観察し、歩いていることに気づきつづけます。例えば、足が上がれば上がっている状態を観察し、その状態に気づきます。運べば運んでいると観察し、足を下ろせば下ろしていると観察し気づき続けます。食べていれば食べていると観察し、顔を洗っていれば顔を洗っている動作を細かく観察し、一つ一つの動きに気づいております。気づくときのテクニックとして、最初は言葉を出して気づきを観察しつづけます。例えば、足が上がれば、「上がっている」または「動いている」と言葉を使って、そのときの状態に気づいております。

なぜこのようなことをやるのかと言えば、人には今がないからです。我々は歩いているときは歩いていると知りません。食事のときも行動するときも無意識に行って、認識してはおりません。ですから、いま自分は何をしているのかを知ることが、自分を知る事になるのです。

また更には、人間の思考するすべては個人的な理解・判断が入ってしまい、感情を想起してしまうがために苦しみから抜け出られません。基本的なダンマ(法)として、ただ歩く足の動き、手を動かせばその動き、すべての基本的な行動だけを観察し、判断しないその心のくせを造るとき、すべての苦しみから抜け出せるのです。判断しない、ただ観察し気づいている「サティ」のこころができたとき真理を知るのです。

少し難しくなりましたが、言葉で説明するより体験するほうがいいので、理論はあとにして次に移ります。

受は同じように感受の観察。痛いやら、痒いやら、暑いやら。身体的な感受の観察。

心は、嫌だもうやめたい、気持ちが良い、怒っている心、やすらぎの心など、心の観察。

最後の法も観察は、法則や悟りの段階の心の観察。七覚支と言われる、悟りまでの心の観察も法の観察になります。また、何か音が聞こえたとき、電車の音、風の音とやると、自分で判断しているので法の観察にはなりません。声や何か音が聞こえたとき、すべてに音と観察すればそれは法の観察となります。音はそれ以上の言葉がありません。声は声なのか音なのか分かりません。声と判断したものは違っているかも知れないからです。

判断しない心、ただ観察する心を造ることが、智慧の道、解脱の唯一の方法です。ですから最終的な解脱のための修行方法はこの「ヴィパサナー」という修行方法だけなのです。

悟りは四段階ありますが、最終的な解脱はヴィパサナー瞑想する以外にありません。お釈迦さまはこの方法を発見したから解脱し、仏陀になったと言われるのです。

しかし、この方法は実は日本に入ってこなかったのです。何故入ってこなかったかといえば、比丘がいなかったからです。比丘にならなければヴィパサナー瞑想は習えなかったからです。日本には比丘が入っていないのですから、残念ながら日本には入ってこなかったのです。

ヴィパサナー瞑想は智慧の瞑想といわれるだけあって、最初から行うのは結構難しいものがあります。そのためにミャンマーでも、修行の最初はサマタ瞑想という集中瞑想から始めることが多いものです。坐禅と同じように集中力をつけてからヴィパサナーに入っていくのです。マハシ道場も最初に行うのはこの集中瞑想で心の力をつけて、それからヴィパサナーへ変更していくと言う方法をとっておりました。

私がミャンマーへ出かけたその時の心の状態はと言えば、何が正しいのか分からない、大乗仏教も捨てきれないというところで、自分がどのような心になるのか確かめに来た訳です。マハシで六ヶ月間修行して、そして、自分の中のあらゆる謎というものが解けてきたのです。

自分の心がまずはっきりと見え出してきました。そうしますと、自分の謎というんですか、そういうものが解け出してくるわけです。そしてこの方法が一応修行方法として間違いのないお釈迦さまの方法なんだ、という実感が出てきたんです。

自分の心を調べていくうちに、人間というのは何て自分勝手なのだろう、と当然思いました。自分の心をいつも調べて、見ていく、観察していく。観察していくと、あくまでもどこへ行っても、どこまで行っても自分というのは欲と怒りの中で生きているし、すべての行動が自己中心的な心でもって人間は生きていると言うことが実感できるのです。それが少しずつ見えてくるんです。嫌になりましたね。

最初に愕然としたのは、自分の心の汚さです。次に解ってきたのは、自分は肉体の奴隷であると言うことです。私はいつも肉体の命令に従ってのみ自分の行動をしてきたな、ということなんです。生きることは肉体の要望にしたがって行動しているだけです。朝起きて、すっきりしたいから顔を洗う。お腹がすくから食事をする。トイレが我慢できないからトイレにいく。寒いから服を着る。(はな)が出たのでかむ。

ここまではすべて肉体的な欲や怒りの世界です。肉体の命令に従って行動しているだけです。お腹がすけば欲で食事をし、寒いから嫌悪の怒りで服を着て、洟が出たので不快の怒りで洟をかむ。すべて欲と怒りだけで行動しています。

そこには理性などありません。私は瞑想を通し、一日の行動と心の状態を観察し、つくづく人間の一日は欲と怒りでしか行動していないんだということをはっきりと確認しました。人間の心の中には貪欲(どんよく)瞋恚(しんい)、愚痴の煩悩三毒しかないと言われた、お釈迦さまの仰るとおりだったんです。

愕然としました。なんだ、私は身体の煩悩の奴隷じゃないかと。自分のものなんて何一つもない。自分の主人は自分の身体じゃないかと。人間には心と身体があるはずなのに、私の主人は身体であり煩悩なんだ、というふうに気がついたわけです。これはいけない、と思いました。

実際なんとかしなきゃいけない。この身体が主体として生きているかぎり、欲と怒りや快楽ばかりを求め、無恥で理性的なことなど何もない。心を成長することなど、一生かかっても普通の人間ではありえないんだと思ったのです。

私は瞑想修行を通して体験によって理解したのです。例えば、食事しているときも、食べたいなと思った瞬間に手が伸びていきます。食事中、座っている足が痛くなる。足が痛いと思う瞬間、無意識に足を組替えている。肉体的な欲と怒りが先にいってしまうんです。足が痛くても組替えなくてもべつにいいんですけどね。

風が吹いてきて寒いなと思うと鼻をかみたくなるとかもそうです。自然に手が散り紙の方へのびて鼻をかもうとしています。どこかが痒いとぱっと手が痒いところへ延びて掻こうとします。二十四時間観察していましたら、人間が生きることは欲と怒りのことしかやってないと気づいたんです。怒りというのは嫌だなあという感情ですし、嫌だと思うとそれを取り除きたくなるのです。

あとは歩くとか、寝るとか、欲と怒りではない無記と呼ばれるものしかやってない。理性的な行動や善いことなんて全然やってないじゃないかと。なんと自分という者は身体の煩悩の奴隷なのかと、そういう事を瞑想によって初めて気がついたのです。皆さんも自分の一日の行動を見ていてください。まったく欲と怒りだけで行動していることがよくわかります。

これじゃいけないと思いました。このまま死んだら一体どうなるのだろうかと。大乗仏教でも輪廻があると言いますし、(いまの学者はほとんど輪廻があるとは言っておりませんが)テーラワーダ仏教でも、仏教の基本として人間が生まれ変わるという事は当然だというふうに言っております。

ですからこのまま輪廻したら自分は危ない。要するに身体の命令のままに輪廻すれば、当然人間以下に生まれる事は当たり前です。動物の世界はそういうものですから、身体の命令だけで生きているのですから。だからこのまま輪廻すれば危ない。なんとかしなければ、心を育てなければ危ないなというふうに思ったのです。

心と身体の関係が少し分かってきました。心に智慧が出てきたのです。それと同じくして、大乗仏教で言うところの空の矛盾なども見えてきましたし、菩薩と仏の関係も解けてきました。どんどん頭が冴えて心を観るたびに真理の扉に手が触れかかってきました。

私はミャンマーでの6ヶ月の瞑想体験の結果、大乗仏教が絶対であると思っていた堅い鎖が切れたのです。心のほんの少しの体験が新しい方向に向かわせたようです。

日本に帰国してから、私はこの教えによって真理がわかるという確信もあって、スリランカの長老の元でテーラワーダ仏教の勉強を再び真剣にやりなおしました。

大乗仏教とお釈迦さまの根本仏教の違いはたくさんあります。とくに根本仏教ではお釈迦さまは人間の心は愚かだと、言いきっているところが違います。人間はどうしようもない怠け者で、自分さえよければいいと思っている。そんなことまでおっしゃております。

先日ある僧侶がテレビでこんなことを言っておりました。「あなたは自分を大事にしなさい。やりたいことをしなさい」と。自分を大事にしなさいということはどういうことなのか、皆さん知っていますか。如何ですか。何か分かりますか。自分を大事にしなさいとよく人は言いますね。「あなたは自分を大事にしなさい。」と。何を大事にしたらいいのか訊いてみてください。

私にはなんかわがままをしなさいといっているように聞こえますけど。自重しなさいというのもあるんでしょうが、「自分を大事にしなさい」と言う言葉は、自分の思うように生きなさい、というように言っている気がするんです。何かわがままを増長させるように聞こえます。

それと同じような言葉に、「ありのままに生きなさい」、という言葉があります。ありのままに見よ、という言葉はありますが、ありのままに生きなさいは危険です。自分の思うように生きなさい。やりなさい。ありのままに生きなさい。そんなことを言ったらとんでもない事になります。何故か分かりますか。人間の心ほど悪いものはないんです。本当に人間ほど地球に邪魔なものはいないんです。

自分の楽しみのために狩をして動物を殺す。金儲けのために平気で自然を破壊する。はっきり言って地球環境から見れば、人間は悪人なんです。動物界の頂点にたって、傍若無人に振舞っているのです。ゴキブリが出てくると気持ち悪いと言っては平気で殺してしまう。蚊がいればすぐ殺す。そんなの人間だけですよ。ゴキブリにも蚊にも生きる権利があるのです。

よく自分の心を考えてください。何かもしあった時にまず考えるのは自分優先でしょう。あたしが良ければいいよ、と。はっきり言えば私さえよければ他はどうでもいいんですよ、という形の生き方が人間のほとんどの行き方なんです。

だから、ありのままに生きるということは人間には危険なんです。人間というのは残念ながら身体を中心にして生きているものですから、自分の身体を守ろうとして生活していくと、どうしても自己中心的な考え方しか出てこないんです。いつでも感情的で理性がないのです。

皆さんは一度でも自分の心を育てた事がありますか。自分の心を何とかしようと思った事はありますか。こういう会で勉強しているということは、一般の人にはなかなかできない世界です。ですから、ここにいる人は少しでも何とかいいものに近づこうとしている人だと思うのですが、本当に自分の心を何とかしよう、この悪い心を何とかしようというように考えたことがありますか。なかなかないでしょうね。

人間には何が必要なのか。せっかくいままで生きてきたんです。人間としての価値はどこにあるのか。動物と違うとこはどこなのかと、一度考えてほしいのです。

人間は誰もが、ただ生まれて、子供を育てて、そして死んでいくのです。人として子供を育てたらそれでもういいんですか。大きくして大学までやって立派にしたらいいんですか。子供を育てることなら、猿でもやってます。象もライオンも犬も猫もアリでもやるでしょう。鯉も魚も同じでしょう。

子ども育てることは。人間と動物とどこが違うんですか。子供を育てることはほっといてもできるのです。たまたま人間は小さい頃に手が掛かるのであって、保護しなければ死んでしまうだけです。だから子供を育てることなど、動物だって行っているのであり、子供を大きくしたからもう私はいいんだと言うことは動物と同じなんです。とんでもない話です。

人間と動物の違いは、人間は心を育てることができると言うことです。心を育てることは動物にはできません。これは人間だけが持っている特権なんです。善い心にも悪い心にもどちらにも人間はなれます。あなたはどちらの心を育てたいですか。分かっていることは人間は放っておけば欲と怒りの悪い心ばかりで善い心は育たないと言うことです。

皆さんはいい車に乗っているから事故を起こさないと思ってはいませんか。ベンツに乗っていようが運転手が悪ければ事故を起こすものなのです。要は心の使い方なんです。

ですから、身体というものがいくら丈夫であっても、元気でいようがそのままにほっておけば危ないんです。必要なものは心なんですよ、人間にとって。

本当に考えてください。人間ほど凶暴なものはおりません。平気で人を殺す。何人殺そうと、どんな理屈つけたって殺し合いを一年中どこかでしているんです。今だってそうでしょう。アメリカとアフガニスタンがやったのも単なる殺し合いでしょう。イラクを攻撃してアメリカは何万人の人々を殺そうとしているのですかね。戦争と言っても、一対一だったら殺人で罪になるのに、国と国とで何万人も殺せば罪にならないのですかね。

だから人間は愚かなんです。どこまでいっても愚か者なんです。殺し合いをしても解決しないのに、本当に人間は馬鹿なんです。

だから人間は愚かなんです。どこまでいっても愚か者なんです。殺し合いをしても解決しないのに、本当に人間は馬鹿なんです。

要するに自分が苦しんでいる原因を全部回りの人に押し付けているんです。みんなが私は正しいんだ、と思っているんです。

いままで人間はすべてそういう生き方をしてきたんではないですかと私は言いたいのです。一度でも自分の心を何とかしよう。自分の心を育てようというふうに思った事が皆さんはあるのですか。せっかく人間に生まれてきたんですよ。動物にはできないのです。猿にはできないんです。決して動物にはできない事、それは自分の心を育てるという事なんです。人間は自分さえよければいいと思っていると先ほども言いました。だから、悪い心はほっておいても育ちます。はっきり言って、人間の心はもともと悪いんです。自分さえよければいいと思っているんです。だからほっておけば悪い心だけ育ちます。そのまま死ねば危ないんです。

ですから、善い心を育てなくては人間に生まれた価値がありません。仏教では少しで満足する小欲知足の心をまず教えています。次には、慈・悲・喜・捨の四つの心を瞑想で育てなさいと教えています。最後にこの瞑想も実践してみますが、簡単に説明しておけば「慈しみの心」「苦しんでいる人を救いたいと思うやさしい心」「隣の家の幸せを共に喜べる心」「何に対しても冷静な平安な心」の四つの心を造ることです。せっかく人間と生まれてきて生を受けたんです。最後の最後まで自分の心を育てると言う、やることがあるのです。

身体はほっておいてもどうせ死んでいくんです。誰でも百パーセント。絶対というものがこの世界にたった一つだけあります。それは人は死ぬということなんです。私も僧侶をやっておりますので、葬式に行きますが、死ねばみんな嘆き悲しんでおります。でも誰でも明日はわが身なんです。本当は泣いている本人が明日死ぬかもしれないのです。

お釈迦さまもそういってます。岩波文庫にブッダのことばという文庫本があります。そのなかの第三章の八「矢」というところに死についてのお釈迦さまの言葉があります。
  • 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべてのものは必ず死に至る。
  • 見よ、見守っている親族がとめどなく悲観に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人づつ連れ去られる
  • 泣き悲しんでは、心のやすらぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである
  • 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる
  • 見よ。他の生きている人々はまた自分がつくった業に従って死んでいく。たとい人が百年生きようとも、終には親族から離れこの世の生命を捨てるに至る。

身内が死んでも泣くなよと。泣いたからといって何か得することはあるのか。という風にお釈迦さまは強烈に言ってます。そういう言葉がはっきり書いてあります。その通りなんです。そんな時間はないだろうと。おまえ達も自分が明日死ぬかもしれんのだぞと。それでいいのかいとお釈迦さまは言っているんです。

それから、あなたの心は業に従って、永遠に輪廻していくんです。死んで滅びてしまうのではないんです。残念ながらまた輪廻していくんです。だからせめて人間として生まれてきたこのチャンスを活かすべきなんです。活かさなければ人間として生まれてきた価値がないでしょうというのがお釈迦さまの教えなんです。

心を育てましょう。少しでも善い方向に心を育てましょうというのがお釈迦さまのおしえです。

ありのままに生きなさい。自分を大事にしましょう。たくさんの言葉がありますが、ほとんど自分の思った通りに、我侭に生きましょうよ、と私には聞こえます。

しかし、結果的に、もしわがままに生きたらどうなるんですか。人生が一度きりであっても、わがままに生きれば、必ず苦しみがあります。仕事をしてもわがままにやれば、皆から嫌われるでしょう。家庭でもそうでしょう。わがままに生きていれば必ず、苦しみが出てきます。社会はそう出来ているのです。

先ほどからの繰り返しになりますが、人間はすべて自分勝手だからです。自分さえよければいいと思っているのですから、だから逆に人の勝手が我慢できないのです。どちらもわがままだから、わがままをすれば「何だあいつは」と言われてしまうんです。すると社会から認めてもらえない。悪口をいわれる。というふうに苦しみができるのです。

だからこの世界では自分勝手になど生きられないんです。人と仲良くしなけりゃ生きられない。人にやさしくしなければ生きられないのです。人間は自分の欠点は見ませんが、相手のわがままはよく見えるのです。

ですから、人に対する慈しみの心を持つ事がもしできるのであれば、誰からも好かれる人生をおくれるんです。それは皆がわがままなんだからです。皆が我侭だから、俺さえよければいい、人から何かを盗ろう、できれば利用しようと、皆思っている人ばかりですから、その中で逆に、相手の幸せを願う慈しみの心を持っている人がいれば、皆から好かれるのです。だから幸せな人生を送りたければ、慈しみ心、皆の幸せを願う心を造ることが必要なのです。

必要なのは心なんですよ。物じゃないんです。お金や車などの道具を集めることではないのです。心なんです、必要なことは。だからせめてそういう心を作りましょうよ。ということでお釈迦さまは善い心の作り方を教えてくれたのです。どうやって人間は生きたらいいのか。どういう心を作ったらいいのか。どういう風にやって心を作るのか、ということを徹底してお釈迦さまは教えたのです。

現世利益がどうだとか、そんな事はこれっぽっちも教えてないんです、ほんとうは。基本的には心の作り方、心ってなあに。心をどうしたらいいの。どうやって心を作るの。何が幸せなの。というような教えを説いているんです。

そして最終的には存在というものの全てから解脱し、絶対の安楽を得ましょうというふうに説いているんです。

ですから一般の人には最初に心とは何かをまず教え、次に善い心の作り方を説いているんです。皆さんは心が何かという事を知らないし、心がどこにあるかということも知りませんね。心はどこにありますか。心臓にあるとか脳にあるとか言う人がいますけど、違うんです。物と違って心はエネルギー、波動ですから、働きなんです。死ぬと働きが止まるでしょ。身体は残っているけど、心の働きが止まる。それを死と言っているのです。ですから、こころは身体全体に働いているのです。身体全体に働いている、働きというエネルギーなんです。電気みたいなもんですね。働きなんですよ。心の働きがあるから体が動くんです。指先一本動かすのも心の働きなんです。こころの働きは膨大です。身体を造り、身体を動かし、感情があり、思考して、行動する。また他人の行動にも影響を与えます。ですから、元が良ければ、いい心を作ればいい行動ができる。いい言葉も出る。善い考えが出れば、善い行動をして、善い行動をすれば皆からも好かれ幸せにもなれるという訳です。それを人間に生まれてきたこのチャンスに皆さんはいったい何をしているのですかと言われているのです。

人間は愚か者だと、お釈迦さまは散々言っております。生きたってわずか、百年です。長い輪廻の中の、たった百年の短いこの時間に、すばらしい心ができる可能性があるんです。善い心を造れば、今世も来世も幸せがあるのです。だからがんばりましょうと、お釈迦さまは言われるのです。人間は自分の好きなように、自分勝手でわがままに生きていくと、今世も苦しみ、来世も苦しむことになります。

ですから、我々にまず必要なことは、如何にしたら自分の心をよくできるかという方法なのです。なぜなら人間はいつ死ぬかわからないものです。危険なんです。また、心を綺麗にしないまま死ぬのは人間として生まれてきた折角のチャンスをなくしてしまうことになるからです。

今まで我々は身体の命令だけで、一生を生きてきました。お腹が減ったら食べて、疲れたら寝て、身体を保つために稼ぎ、生きてきました。また困ったことに、自分の感情に勝った人もいません。いやならすぐ泣くし、わめくし、逃げるし、怒るし、いままでの人生で怒らなかったという人はおりますか。誰一人いないと思いますよ。何か嫌なことがあればすぐに腹をたてるでしょう。

人間は身体の奴隷と前に言いましたが、正確には感情の奴隷なのです。身体の命令も感情ですし、心の感情もあります。つまり、人間の主人は感情であり、人間は誰も感情を自分でコントロールできないわけです。これでは、困りますね。自分というものがなく、感情が主人なんですから、どうしようもありません。ですから、心を育てると言うことは、感情をコントロールすると言うことでもあるのです。感情に負けない心を造ることなんです。

実は感情に負けない心はいつでも人間は身勝手につくっています。人間というのは怒るのも身勝手で怒っているものです。仕事をやっていますと、自分の上司、社長とかに文句を言われても怒れないんですね。車を運転していて、無茶な運転手がいた。腹がたって、信号で止まったから文句言おうと思ったが、相手がやくざ風な人だとわかると急に、怒るに怒れなくなります。ですから、人間は怒るという事も実は人を見ながら怒っているという事があるんです。怒れる人に対して怒っているのです。このようにときと場合によっては感情を自然にコントロールしてしまうんですね。

お母さんは特に自分の子供には非常に怒ります。なぜかと言えば、自分の子供だと言う意識があるため、自分の意にそむかないと、怒りが出てしまうんです。子供は自分のもので、自分の言うことを聞くもんだと勘違いしているからです。自分の子供と思う、自分のものと思う意識がいけないのですけれども。

身体というのは変化します。皆さんも見てください。自分が怒ったときに身体がどう変化してるかを。身体も悪くなりますし、感情的に怒ってしまっては子供も言うことを聞きません。聞いた振りをしているだけなんです。納得していないから、あとで反発が帰ってくるのです。

感情によって身体が変化していることは、誰でもすぐに見えます。ストレスがあれば胃が悪くなりますし、疲れます。心配事があれば、食欲がなくなり、眠れなくなり、すぐに身体に支障をきたします。逆に喜びがあると、身体が軽くなります。宝くじが当たったと知ったら、少々の身体の具合の悪さは吹っ飛んでしまいます。だから身体も実際は心によって変化してしまうのです。

その点から言えば、人が病気になったというのも自業自得ということも言えるんです。

病気になるにはいろいろな原因があります。細菌性、薬品、遺伝、カルマ、環境、食事、身体の疲れ、ストレス、などさまざまな原因があります。でも、病気になる、身体を悪くするというのはやっぱり心にも原因があるんです。心がいつも明るいと、明るく身体をどんどん作っていくものなんです。身体が苦しいときに、身体に負けては病気も治らないのです。病気なんて何だと思う明るい気持ちが必要なんです。

私の母親が、がんで入院したことがあるんです。そのときに母親にアドバイスしたことがあります。身体は誰でもいずれ捨てていくんです。百パーセント身体はこの世界に置いていきます。

身体は誰でも捨てていくんだから、これから先どんなに身体が丈夫になろうがどうせ何年かしたら捨てて往きます。だから病気だろうがガンだろうが、足が無かろうが、目が無かろうが、身体なんて関係ないんです。必要なものは心なんです。身体より心を何とかすればいいんです。病気は治るときは直るし、医者に任せればいいんです。自分は身体のことは心配せずに、自分の心を見つめなおせばよいのです。

明るい心を造りましょう。病気を忘れて、明るい心をまず造りましょう。明るい心を造れば、病気も心配ないし、これからも心配ないのですから。そういってアドバイスしました。そのときに、慈悲の瞑想を教えたのをおぼえております。

心を造る、心を育てると私は何回も言いました。それでは、一般の方が心を作るための一番の近道がありますので、それを説明します。

布施、戒律、修行と順番があります。これは心を作る順番なんです。皆さまも聞いた事があると思いますが。

最初の布施のことをダーナいいますね。だんなさんはここから来てる言葉だと言うことですが、日本で布施というとお金を与えると言う意味になりますね。でも、そうではないんですこれは。ダーナということは、ただ与えるという意味です。ですから、与えるものは言葉であり行動であり優しさであり、物であり、人々に何かを役立つ事をしましょうよ、とそういう意味なんです。

公園の掃除をやっても、道を教えても、老人ホームを慰問しても、荷物を持ってあげても、やさしい言葉をかけてもすべてダーナという布施になんるのです。ボランティアもダーナですし、人のために何かしてあげることはすべてダーナになるのです。

ですからまずそのような、人に役立つ側、与える側になりましょうと言うことなんです。貰いたい、貰いたいと誰でも思っていますから、貰える側から与える側へ回ると言うことです。与えるものは何でもいいんです。自分の家の周りを掃いても、ゴミを拾ってもいいんです。何でもいいんじゃないですか。優しい言葉でもいいじゃないですか。困った人を助けましょうと言ったっていいでしょう。なんでもいいから人に役立つ事をし、少しでも世間にお返しをしましょう。ということです。これがダーナです。まずダーナという、できる事からはじめましょうと、これが在家のやり方なんです。

そしてもう一歩進んできますと、それじゃ生活習慣を変えましょうと言うことになります。「戒」と次にありますけど、生活習慣のことです。自分がいい心を作るために罪を作らない生き方をしましょう。できる限り罪を作らない生き方をしましょうというふうに生活習慣を変えていくわけですね。これが戒律というか、生活習慣を変える事なのです。

在家としてみなさんも聞いたことがあると思いますけど、五戒というものがあるんです。生活習慣を変える方法として、五戒という形で在家が守るべき生活習慣というのがあります。在家が安全な生活を送るべき守る、五つの生活習慣だと思ってください。在家が守る五つの戒律と覚えてもらっても結構です。

一番目は、殺さないという戒めです。大乗仏教では肉、魚を食べないというふうに言ってますが、本当はそうではありません。現在の日本の僧侶は肉も魚も食べますが、大乗仏教国である韓国や中国の僧侶は肉も魚も食べません。私も大乗仏教時代の20年は実は精進だったんです。天台宗であっても精進でやっておりましたのは、昔の先生からそのように言われていたものですから。

でも、この一番目の戒律、生活習慣は実際は生き物を殺さないという戒めなんです。これは本当は意外に難しいんです。人を殺さない事は誰でもできますけど、生き物を殺さないと言うと、では農家の人はどうしようかとか、ゴキブリを殺してはいけないんですかと言う問題が出てきてしまうんです。ゴキブリが出てきても、蚊が腕にとまっても殺してはいけないのです。ミャンマーへ行ったとき、蚊も蟻もたくさんいました。私も最初は殺虫剤を使って、どんどん殺しました。精進はやっていたのですが、虫は殺していたのです。

でも、怒られましたね。修行者なのに何だと言われました。殺さないという戒律をお前は受けただろうと言われたんです。修行する前にお誰でもが五戒を受けるのです。五戒の最初は要するに生き物を殺さないという戒律なんです。肉、魚を食べないというのは、そんなに難しくない、簡単です。そうじゃなくて生き物を殺さないというのが難しいんです。普通にしていくとね。だけどやろうと思えばできます。できる限り自分の家に入ってきたゴキブリでも逃がしてやってください。蚊も蟻も逃がしてやってください。「私は他の生命を決して奪いません」そういうふうにやるとできます。そうするとやさしい心ができます。生命に対する慈しみの心が育ちます。殺さないと言う戒律、これもぜひ覚えてください。

二番目は盗まないという戒めですね。人の物を盗まない。これはあたりまえですよ。もし盗んでいいというのがあったらどうします。戒律というより、皆さん考えてみてください。もし盗んでいいとなったら誰も仕事なんてしないでしょうね。勝手に人のものを持ってくればいいんだから。それでは社会が成り立たないんです。だから盗みはしないと、これはあたりまえの事でしょう。

だけど細かい所で誰でも盗みをやっているんですね。よく男性がするのが経費のごまかし。出張費や交通費をごまかすことはよくやります。昔は定期でキセルはよくしました。

それと、売店で新聞やタバコを買って時々おつりを間違ってくれることがあるんです。百円二百円のことですが、余分にくれたりすることもあります。しかし、私はおかしいなあ、いけないと気がつけば必ず返しますね。盗みの戒律に違反しますから。

それから電車に乗っていて雨の降った日なんかは傘の忘れものが多いですね。この前も私の隣に傘が置いてありました。終点になって、誰もいません。

男物の非常にいい傘なんです。ちょうど家に長い傘がなかったものですから、一瞬持っていきたいなと思ったのですけど、それをやったら盗みになるなと思いましたので駅員さんの所に届けることにしました。

これ忘れ物ですというふうに届けたんですね。そした駅員さんが、え、珍しいですね、とちょっとびっくりしてましたね。わざわざ忘れ物を持ってくる人はいないんでしょうね。ですから、この盗まないという生活習慣も意外と難しいんです

三番目は嘘をつかないという戒めですね。嘘をつかないことは社会ではあたりまえです。もし社会で嘘をついていいとなったらどうなりますか。こういうものは極端に考えてみると答えがわかります。仕事で嘘をついていいということになったら、誰も仕事は出来ませんよ。「すみません。明日まで、納品お願いします。」「はい、解りました。」明日になって持って来ないんですね。「どうしたんですか、」「あーあれは、嘘ですから。」これでは喧嘩になります。

何か買ってもすべて商品とお金を交換でなければ渡しませんね。明日払うなどと言うことは、信用できません。嘘をついてもいいのですから。これでは社会が成立しません。だから、嘘をつく人は社会から外れてしまうのです。

つまり、嘘はついちゃいけないというのは、社会では当たり前なんです。こういう基本的なものを守る事によって社会から信用されていくんです。ところがあまりにもこういう決まりを皆簡単に破っていくから社会から信用を失うのです。

また、嘘も方便なんて言葉もありますね。嘘も方便というのも嘘ですよ。方便なんてないんだから。方便を言わなければならないときは、何か悪いことを行っているときです。会社の帰りにソープランドへ行ってきたとか、不倫をしているとか、悪いことをしている行動を慎めば、方便はなくなります。

お医者さんががん患者に対して、嘘の病名を言うことも方便と言いますが、これも問題ですね。わずかな命なら充実した生き方が出来るチャンスが人間にはあるのですけど。告知したほうがいいと私は思いますよ。嘘になるならば、言い訳をしなければいいのです。

ですから、生活している上においては、私は絶対嘘をつかないと決心して、生きていかなければ、心はなかなか育っていかないものです。

四番目。これは不邪淫戒といいます。在家の人は決まった人以外、夫婦以外とは姓関係を持たないという戒めです。不倫したりソープランドなどへは行かないという戒律です。これを守れば、家庭は平和になります。

また、出家の比丘に対しては男女の交わりをまったく持たない不淫戒となります。つまり、出家には男女関係というものはありません。ですから、日本には出家はいないことになります。

在家の場合、日本の場合は僧侶もそうですけど、決められた夫婦関係以外はもたないという不邪淫戒、というものになります。これは当たり前の生活習慣ですね。でも、男はなかなかそれも出来ないでしょう。男性の場合は地位があったり、お金があれば、女性の一人や二人なんとかしようと思いますからしょうがないですね。政治家や経営者は必ずと言っていいほど奥さん以外に女性がおりますね。ほんとはこれを犯せば秩序も乱れるし、生活も家庭も乱れてきます。政治家で女性問題で地位を棒に振るということはよくあることです。愛人がいれば家庭がおかしくなってくるのも当たり前の事です。旦那が浮気して何処かに行っているなんていったら、すぐ家庭もおかしくなります。これでは、心やすまる暇がないでしょう。

だからやはり、決まった人以外とはそういう事をしないという生活習慣は当たり前のことなんです。近頃は男性ばかりでなく、女性の方のほうが浮気など多いと聞きますが注意してください。すぐに家庭崩壊しますし、悪い結果になりますから。

最後の五番目は、お酒なんです。これは意外と難しいという人も多いですね。お酒に酔わない程度に飲めばいいと言う人がおりますが、それは違います。お酒を一滴も飲まないと言う戒律です。お酒を飲めば、どこかで間違いを犯してしまうものです。浮気をしたくなったり、乱暴したり、こころのセーブが効かなくなってしまいます。だから一滴も飲まないほうが生活が安全なんです。

また、仏教徒というより、心を育てようという修行者は殆ど自分でお酒から離れて行きます。無理しなくてもそのようになっていきます。お酒を飲むとどうしても心が乱れるますので、心のコントロールが効かなくなって問題を起こしてしまうからです。

お酒を飲む人は、いままでにも何か問題があったことが多いんです。だから出来るだけ自分でやはりそういうことになりたくないもんですから、無理せずにお酒から離れていくという風になります。

我々も決して、強制はしません。飲みたい人はどうぞと言います。だって自分の勝手ですもの、どう生きようと。自分で心を育てて、社会で安全に生きるためには五つの戒めを守ったほうが幸福になれます、とはいいます。でも、守るか守らないかは、個人の勝手です。そこまで強制はできません。

しかし、この五つを守っていれば社会のなかで認められ、安全な暮らしやすい生活が出来ます。ですから、皆さんもどうぞチャレンジしてみてください。これが在家が守るべき五つの戒めの、生活習慣です。

布施、戒律、ときて最期はいよいよ修行になります。

先ほど修行についてはサマタ瞑想とヴィパサナー瞑想だと簡単に説明致しました。そこで最後にサマタ瞑想の一つになりますが、お約束の慈悲の瞑想の説明をいたします。人間として生きる大事な目的の一つに心を綺麗にすることと説明しました。この瞑想は心をきれいにする特効薬です。

知恵の瞑想であるヴィパサナー瞑想は、これは言うなれば強力な爆弾みたいなものです。実践によって欲や怒りや苦しみなどを消滅してしまう方法ですから、これは時間をかけて行わないといけませんので、今日はちょっと無理だと思います。ですからもう少し易しい、誰でも出来る瞑想法をお教えいたしますので、ぜひやってみてください。

皆さんにお渡ししましたプリント、これに慈悲の瞑想というふうに書いてあります。私が幸せでありますように、と書いてあります。言葉を使って、自分の心を直す為の瞑想法です。要するに阿弥陀念仏やそういうものと同じようなものなのです。ただし自分の心を慈しみの心に変えるという目的があります。

心というのは不思議なもので、同じ心で長い間いますと、そのような心になってしまいます。ですから、いつも怒っている人は、何かあるとすぐに怒ってしまう癖がある心になってしまうのです。怖いんですよ、だから。注意しませんと、しょっちゅう怒っている人はすぐ怒るような心を持ってしまいます。

ですから、逆にいつでも慈しみの心を持っていますと、慈しみの心が育ってくると言うわけです。人に対する優しい心、慈しみの心、その心を育てなくけりゃいけないんです。実際には人間にはそういう心があまりありません。残念ながらほっとおけば本心は悪い事しかしたがりません。だからこそ、無理やりにもこのような慈しみの心を育てなくちゃいけないのです。

心を育てる方法はボランテイァを行ったり、人の為に尽くしたりする実践の方法がありますが、これは喜んで行わなければ善い心が成長しません。ですから、難しいのですが、一番早い方法は、心は同じ心を繰り返す事によって、その心になっていくという法則ですから、心の中で他の人の幸せをただ祈り続けるのです。祈るだけですから誰でも出来ます。一番いいのは毎日夜寝る前にこの瞑想を30分やることです。そうすれば必ずそのような心に近づいてきます。

幸せというものは、人間関係が主ですから、人間関係が楽になれば必ず幸せに近づきます。人から求められる、人から頼りにされる、という人は非常に幸せな人生を送れるものですから、ぜひこの心を作って頂きたいと思います。

仏教は実践あるのみです。百万べんお経をよんでも一回の実践にはかないません。瞑想実践しない限り仏教を理解したとは言えないのです。仏教は瞑想というものが実際にあって、進んでいくもんなんです。仏教には沢山の法話がありますけど、千回法話を聞いても実践しなければ聞かないのと同じです。実践しなければ心は出来ないのです。

だから一番簡単な実践方法である瞑想をやりましょう。夜寝る前で結構ですから、みなさん「なむあみだぶ」と拝みましたら、その後に慈悲の瞑想をやってみて下さい。

ではどういうものかというものを覚えてください。代表的な四つの心「慈」と「悲」と「喜」と「捨」と四つあるんですけど、日本語で読むと慈悲・喜捨なんですよね。最初慈悲と喜捨と私も読んでいたのですが、間違いです。慈と悲と喜と捨との四つです。

パーリ語でいいますと、「慈」メッタと「悲」カルナと「喜」ムディターと「捨」ウペッカと言います。人間が作らなければいけない四つの心なんです。人間が育てなくてはならない四つの心、これが善い心の基本なんです。この四つの心を育てましょうという事なんです。

最初が慈しみの心ですね。この心はすべての人に対して、自分の親友のごとく友情の心を造りましょうということです。親が子供に持つようなそんな慈しみの心をすべての生命に対して持ちましょうということです。「幸せでありますように」といつでも祈る心があればどんんどんできてきます。

それから二番目の「悲」の心は苦しんでいる人を助けたいと思う心です。悩んだり、苦しんだりしている人を見たら助けたい。そういう人に対して何とか救ってあげたい、と積極的な行動に出る心です。足が悪ければ手を引いてあげましょうとか、おぶってあげましょうとか、そういう風に積極的に苦しみに対して何かしたい、食べるものがなければあげるとか、苦しんでいる人間に対して何とかしたいと思う心です。

オリンピックで日本の選手が金メダル取った時など、ああ良かったと、共に喜びますけど、どんな人に対しても共に喜べればこの心は完成します。

最後は「捨」の心。この心は修行者の心です。何に対しても平等な心、平穏な心というものなんです。これは修行しなければ出来ない心です。ほとんど解脱に近い心だと言われております。

慈・悲・喜の三つの心は順番に育てていく事も出来ますし、得意なものから育てていく事も出来ます。慈しみの心が強い人は慈しみのこころから。人の苦しみを見ていられなければ苦の心からつくりましょう。

それでは、瞑想の言葉を唱えてみます。同じ言葉を心に染み入るように唱えて、その心を造るという方法ですから、皆さんもご一緒に心の中で唱えてください。

ですからまず自分の幸せを祈りましょう。自分が幸せになりますように、自分が幸せでありますように、というように祈りましょう。

なぜ自分の幸せを先に祈るのかと言えば、人間は自分優先に考えていますので、まず自分の幸せがあって人の幸せがあるというのが普通なんです。ですから、自分の幸せをまず願い、その幸せのこころで人の幸せを祈るのです。

それでは、自分の幸せを心から祈ってみて下さい。明るくなります。気持ち良くなります。それを体験して人の幸せを祈るというとこへいきます。私が幸せでありますようにと、一緒に唱えて下さい。

『慈悲の瞑想の実践の言葉』
  • 私が幸せでありますように。      「慈しみの瞑想」
  • 私の悩み苦しみが無くなりますように。 「悲の瞑想」
  • 私の願い事が叶えられますように。   「喜の瞑想」
  • 私に悟りの光が現れますように。    「捨の瞑想」

基本の瞑想の方法としては、「私が幸せでありますように」「私の悩み苦しみがなくなりますように」「私の願い事が叶えられますように」「私に悟りの光が現れますように」と3回繰り返して祈ります。そして、最後に再び「私が幸せでありますように」と数回強く心に念じます。明るい心が出来てきたら、次に進みます。

  • 私の親しい人々が幸せでありますように。
  • 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように。
  • 私の親しい人々の願い事が叶えられますように。
  • 私の親しい人々にも悟りの光が現れますように。
  • 私の親しい人々が幸せでありますように。

同じように親しい人々の幸せを祈ります。親しい人々の顔を思い出しながら祈ってください。祈れば、あらゆる事がきっとうまくいくと思います。親しい人々が幸せでなければ、自分の幸せもありませんから。

最後にすべての生命にたいしての幸せを祈ります。これは、人間だけでなくあらゆる生きるものすべてに対して幸せを祈る言葉です。世界中がこのような心で祈れれば、きっと戦争もなくなるのでしょうが。

  • 生きとし生きるものが幸せでありますように。
  • 生きとし生きるものの悩み苦しみがなくなりますように。
  • 生きとし生きるものの願い事が叶えられますように。
  • 生きとし生きるものにも悟りの光が現れますように。
  •  

  • 生きとし生きるものが幸せでありますように。

言葉を唱えて、ただ祈るだけです。誰でもできます。この瞑想は幸せを約束してくれる呪文です。どうかわすれないでいつも唱えてください。

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