私は来週またミヤンマーへ戻ります。もしかしたらそのまま帰ってこないという可能性もあるものですから、皆様に少しだけお話をさせていただきたいと思います。
私が初めてミヤンマーへ行き、帰ってからテーラワーダ協会を立ち上げて、もう13,4年になります。私という人間がなぜそういうことを始めたのか良く分からないということもありますので、そこら辺のところからお話しして行きたいと思います。
私は神奈川県の生まれで、今年59歳になります。実家は米屋をしていました。まったく仏教には縁のない生まれです。大学を出て、ゴルフ関係の会社を立ち上げました。ある友人から僧侶として面白い人がいるから会って見ないかと誘われました。もともと私は宗教嫌いだったのです。宗教をやる人間というのはろくな人間ではないと思っていました。
しかし、友人が言うには、将来鈴木さんはえらくなるかもしれない。その時に仏教の一つも知ってないと困るだろうから聞いておいたほうが良いよ、と言うもので、聞きに行くことにしました。
私が後に仏教の道に進むことになる、金田先生との出会いでした。
その金田先生に最初に言われた言葉が強烈でした。
「君は将来何になりたいのか」と聞かれますから、 私は、「松下幸之助のような人で、実業家で成功したいのです」と答えました。
そうしましたら、「それは無理だ」と言われ、思わずムッとしましたね。
「なぜですか」と聞きました。
「あなたはどういう原因を作ったら成功するかということを知らない、この世界でただ で成功するもんではないんですよ。良い結果を得るためには良い原因を作りなさい」と、
善因善果、悪因悪果の「良いことをすれば良い結果がある、悪いことをすれば悪い結果がある」ということを初めて聞いたのです。
それから、輪廻がある、六道があるという今まで聞いたことのない話をそこではじめて聞いたわけです。おまけにこの世界には神も仏もないんだと、信仰しても無駄だと言う話も聞きました。
この坊さんは違うとぞと、この坊さんについていけば何かあるかも知れないということで、大乗仏教の勉強を始めました。そのころは、土曜日曜は毎週通っていました。
この先生は結構厳しくて、菜食主義を基本として、少しでも口答えするものなら、しょちゅう殴られたりしました。そこで我慢できなくなって、やめたりもしたのです。その間他の宗教団体を見てきたりするのですが、輪廻や因果の話をできる人がいない。30年も前ですが、日本の中に、来世の六道輪廻を話す人がいなかったものですから、また戻るというようなことを繰り返しました。
そして、大乗仏教の新興団体というようなものを立ち上げたのです。毎週先生を中心に講演会を開いていました。それまでは、ギャンブルも好きですし、酒も女性関係も、人生の目的は遊ぶことだと思っていたものですから、そういうことをやっていたのですけれど、それを次第に止めるようになっていったのです。
あるとき、一緒にやっている方で、Tさんという方がおられて、そのTさんが、スリランカの僧侶ということで、スマナサーラ長老をお連れしたのです。それで初めてスマナサーラ長老にお目にかかったのですが、私の中には、小乗仏教、大乗仏教という考えがあって、大乗仏教を知らないから小乗仏教をやっているんだと思っていました。それで何となく敬遠していました。しかし対応している時の長老の姿や言葉が、金田先生が負けていると感じたのです。
それで、2、3日してまた長老を訪ねました。そして、帰りがけに法華経をどう見るかを尋ねてみました。長老は、「あれは後から作ったものですからね、お釈迦様の教えではありません」と言うんです。その言葉にカチンときまして、この方は一番大事な法華経のことを知らないんだと、やはり小乗仏教なんだと、それでそのまま行かなくなってしまいました。そのうち長老は国に帰ることになりました。じゃあ、お布施をします、と。お布施をすることだけはしていたのです、どんな人に対しても。
その後、いろいろあって大乗仏教の金田先生から足が遠のくようになりました。
やがて何年かたって竹田さんから、スマナサーラ長老を日本に呼びたいので協力してくれないかというお話がありました。いいですよ、スポンサーなりましょう、ということで呼んだのです。それも尊敬しているからと言うのではなく、お布施としてしましょうということでした。それでせっかく来てもらったのだからと、毎週会社に来て法話会開いたのですが、私にはほとんどピンと来なかったのです。大乗仏教の力が強いですから、納得しないのです。
そのうち日本人比丘のウイマラさんが来まして、それでは勉強会をやろうということになりました。毎月熱海で泊り込んでやることにしました。私はウイマラさんに大乗仏教を教えてやろうと思う気持ちがあったのです。今から思えば何と高慢なことだったかと思うのですが。しかし1年くらい経ってもウイマラさんは大乗仏教の方に変わらないのです。そうこうするうちに瞑想をやろうということになりました。その瞑想をしているうちに、何か違うと思うようになりました。テーラワーダの中にも何かがあると。そこまで来るのに3年位かかりました。そうこうしている内に、大乗の師である先生が亡くなりました。そしてバブルがはじけて、会社の財政が厳しくなり、スマナサーラ長老にも、Tさんの研修所がある大洋村に移ってもらうことになりました。
そのうち私の方にも異変が起きました。毎日遊びまわって家にも帰らないような生活をしていたのですが、不動産詐欺にかかって13億円を騙し取られたのです。それは親会社からの融資だったのですが、私も担保を出していましたし、責任がある以上、一時会社を休養することになりました。
それで時間が空いたので、ウイマラさんのいる九州のパゴダに行って瞑想をすることにしました。瞑想をして1ヶ月くらいたった時に、大乗仏教とテーラワーダ仏教のどちらが正しいのか分からなくなりました。心の中では半々くらいの割合になったのです。それで、ともかくどちらでも良いから、正しいほうに進ませてほしいと毎日お釈迦様にお願いしていました。
九州から帰ってきて、すぐに大洋村にいらしたスマナサーラ長老を訪ねました。一月のうち15日間マンツーマンでスマナサーラ長老に仏教の勉強を教わり、一緒に瞑想もしました。やがて、長老がスリランカへ帰るというので、私も一緒について行きますということになりました。
それでスリランカで初めてテーラワーダのお寺や比丘を見たのです。瞑想道場を2、3見て回ったのですが、とても私が瞑想できる環境ではないと思いました。その頃はまだスリランカに外国人用の設備はなかったのです。しかし、初めて実際にお寺へ行ってみて、日本で聞く「小乗」とはずいぶん違うと思いました。仏教が皆に親しまれていて、文化の中心になっているのに、「小乗」という言い方はおかしいのではないかと思えたのです。
実際にお寺を見て驚きました。お寺に在家の方は毎日食べ物は持っていくのですが、お金は持っていかないのです。山の中には、「こんなところで一生過ごすの?」というような電気も何もないところで住んでいるお坊さんもいました。比丘ってすごいなと思いましたね。日本の坊さんとずいぶん違うなと感じたのです。そのときに沙弥戒というのを受けて、2週間くらい沙弥として過ごさせていただきました。
日本へ帰って、またスマナサーラ長老の所へ通いました。1年位して、瞑想をもっと進めたいと思うようになりました。大乗の空、般若、阿弥陀信仰がいまだ引っかかっていましたが、お釈迦様の本来の教えはテーラワーダだろうと考えるようになっていました。その時、日本に長年いたミヤンマーのウ・ウエッブラ長老が日本に来てらしたので、お会いして「ミヤンマーへ瞑想に行きたい」と言うと、「じゃあ来る時は電話をくれればいつでも迎えに行くから」ということになりました。どんどん道が出来てきたのです。
ミヤンマーではマハシの瞑想センターへ行き、そこで比丘になりました。5人の比丘の立会いが必要なのですが比丘戒を受けました。マハシセンターには7ヶ月位いたのですが、初めてのところで、そうとう良いところまで瞑想が進んだと思っています。心や体が消滅するようなところまで行きました。
その時初めて(大乗の)空という考え方と、菩薩乗の間違いに気づきました。それを捨てて、このテーラワーダ仏教を日本に伝えなくてはならないと思いました。大乗仏教の信仰的な考えから、実践的なテーラワーダ仏教に変わるのは至難の技です。ですから、それを日本に伝えるのが自分の使命であると思ったのです。それで日本に戻って、スマナサーラ長老と合流して、日本でこれを伝えましょうとお話しすると、長老も快諾してくれました。
しかしちょうどその頃オームの事件が起きて、大変厳しい時期でした。宗教に対する風当たりが大変強い時だったのです。私もお金儲けするということでなく、ただ仏教を伝えたいというだけでしたから、何とかなるだろうと思っていました。自分の生活費の資金が尽きたらその時点で止めようと思って始めたのです。やがて長老がNHKの心の時代への出演されて、それが大ヒットしまして、全国から問い合わせが相次ぎました。そこで会としての形が一応出来上がりました。月刊誌のパッティパダの発行や定例講演会を開くことができました。
私はこの仏教を日本で広めるためにどうしたら良いかをまず考えました。
それには本を出版をしようと考えたのです。大手の出版社にいた私の友人の根守さんが来てくれて出版をはじめました。長老の本は力がありますから、やがて、千駄ヶ谷の小さいところでは入りきれないくらい人が集まるようになって、目白に移りました。ようやく協会の種まきが終わって、人もどんどんやってくるようになりました。
その頃家庭的には事件がありました。前の13億の負債について、銀行が家に調査に来たのです。その時の妻は家を取られることになるのではないかと心配して、それでは離婚しましょうということになりました。
ちょうどそんな時、協会も次第に大きくなってくると、私のワンマンの性格が出てきて、周りとぶつかってしまうようになりました。私の生活費もちょうどなくなってのも重なって、協会は皆さんにお任せする良い時期だと思いました。
自分はまたゼロから始めようと考えていました。何も心配してなかったですね。充分徳も積ませていただいたし、いつも行く先々へと自然に道ができてそこにしか進むところがないようになっているのです。さてこれからどうしよかう考えて、ミヤンマーへ瞑想に行くことにしました。マハシ、チャンミの道場、そしてダンマラッキータ先生のところへ行って教わったりとか、違う瞑想道場へ行ったりとかしていました。
日本に帰ってくると、仕事をしなければならない。お金を稼いで、祇園精舎みたいな、ああいうサンガを自分の力で作りたいと思って、また商売でもしようかと思っていたのです。そんな時、友人の智鐘さんから、天台の坊さんになったらどうかとの話がありました。絶対に生活には困らないからと。それでは坊さんになろうということで、以前私は天台宗で得度はしていたのですけれど、住職資格は持っていなかったので、住職資格を取るために比叡山に修行に行きました。しかし比叡山の修行というのは、徹底的にいじめて、精神的にも肉体的にも追い詰める方法です。2ヶ月の間、朝2時に起きて、氷の張っているような日でも裸になって水浴びをし、暗い山道を歩いて水汲みに行き、その水を使って護摩行をするのです。とにかくいじめと体力勝負でした。ミヤンマーでの瞑想修行をしてきた者には脅威でしたが、とにかく僧侶の資格だけは取りました。
家を借り、そこをお寺代わりにして、大きな寺の下請けで葬儀や法事などをやっていたのですが、もともとの商売の才覚が出てきて、僧侶の派遣業をやることにしました。布施をする習慣が付いていたので、商売しても困らないだろうと思っていたからです。布施の功徳が困った時には役に立つだろうと安易に思っていました。
ただ心はテーラワーダの教えの中にいながら、仕事は大乗仏教の僧侶をやっているのですから、回りからは変に思われたかもしれません。私の中では日本の僧侶は家庭を持った在家と同じですので、仕事をしなければならない。ですので、僧侶は仕事と割り切ってやっていました。今生で私がテーラワーダの比丘になるのは無理だろうと考えていましたし、来世になったら比丘になろうと思っていたのです。
ところがまた事件がおきて思わぬ方向に進んでしまいます。
去年死にかけた体験をしました。もともと私には狭心症がありました。漢方の薬を飲んでいたのですが、それには副作用があって、肺炎になってしまいました。病院へ行き入院しようとしたのですが、空いている部屋がない。それで自宅で療養していたのです。健康研究家の友人がいて、「たいがいの病気は、水を2リットル毎日飲めば直るよ」と言うので夕方飲んでみた。夜になって呼吸ができなくなって死にそうになったのです。それで救急車で運ばれたのですが、肺に水がたまって肺水腫となってしまったのでした。 私は若いころから血圧が高く、血圧の薬を飲み続けおりましたが、薬の副作用で腎臓を悪くし、心臓にも影響し、ガンになる危険も血圧の薬にはあるようです。とにかく二週間ほどで良くなって退院しました。
しかし、今年2月にまた救急車で運び込まれたのです。今度は血をきれいにする高電圧療法ということで、電気療法をしていました。電圧で600ボルトと900ボルトとあるのですが、大きい方が良いだろうと、900ボルトを3時間かけました。すると逆に心臓がおかしくなり、不整脈になってきました。そこでまた漢方の心臓マサージを受けに出かけ ようやく家にたどり着いたのですが、またおかしくなってきました。すぐにまた救急車を呼び病院へ駆けつけました。そして病院に着いた途端に心臓停止になってしまったのです。そこで死ぬという体験をしました。
死ぬ時はどういうものか。
それまで、呼吸が出来ずに、苦しい思いをしていたのですが、死ぬ瞬間は痛みも苦しみもすべてストップしてしまって、何も感じない状態になったのです。
そしてもくもくと雲が現れて体を包みます。もう死ぬと思いました。でも何も思い残すこともないので冷静に見つめていました。すべての認識がなくなりました。
ほどなく声が聞こえました。「鈴木さん、鈴木さん」と呼んでいるし、誰かが顔をきつく押さえている。ここで死んでは残した仲間たちに申し訳ないと一瞬思い込んだのです。アッと気が付くとエレベーターの中で心臓マッサージをしていました。
それから6日間昏睡状態で寝ていました。目が覚めたら、天井にサイケデリックな模様が見えて、それが動いているのです。
落着いてきて思ったのは、自分の心はこれで良いのかということです。それまで、死ぬ時はお釈迦様の名前を唱えようと思っていました。しかしそれができなかった。また意識が戻ってすぐに、隣のベッドで寝ている坊さんが、夜中に看護婦さんを何回も呼んで騒いでいます。それがうるさくて腹を立てる自分がいました。「心はちっとも変わっていない。このままでは危険だ。もう一度修行に行かなければ」と思ったのです。
またおかしなことに気付きました。顔を確かにきつく押さえられて私は生き返ったのです。そこで、私の命の恩人である顔を押さえた人を捜してくださいと頼むと、そんな人は誰もいませんでしたよと付き添っていた友人が答えるのです。その友人は私が死ぬ瞬間も立ち会っていましたし、昏睡状態の私に毎日付き添ってくれていたのですから状況はすべて知っています。私は確かに誰かに助けられたのです。多分、人間以外の誰かでしょう。
退院の日が来て、私は修行にミャンマーに行きたいと言うと、医者は「それは死にに行くようなものだ」と言いました。私は、「瞑想しながら死ぬのが私の夢だ」と思っていますから、薬を半年分もらおうとしたのですが、決まりで三ヶ月しかダメだという。また3ヶ月したら必ず検査に来るようにという約束をしてミャンマー行きを決めました。
それで、6月に日本を発ちました。そのときは僧侶の仕事を止めるつもりはなかったのです。今回は二人の若い真宗の坊さんを連れて行きました。それで、どこの瞑想センターに行こうか考えました。自分はマハシとチャンミしか行ったことがないのですが、同じ系統でウ・パンディッタ・セヤドーのセンターがあります。ここは厳しいことで有名なのですが、そこへ行こうと思っていました。
たまたま出発する前に、大塚のMBA(ミヤンマー仏教協会)を訪ね、ミャンマーのクムダ・セヤドーにちらりとお会いしていました。また、飛行機で、パオへ修行に行く女性と一緒になりました。パオというのは、森林派として有名でサマタ瞑想を何年もおこなってから、ヴィパサナー瞑想に移行する方法をとっているセンターです。その本部には500名の比丘が修行しているという話です。
彼女は、そのパオの系統のクムダセヤドーのところで2、3日いてからパオへ行くということでした。それでは私も日本でお会いしているクムダセヤドーに挨拶に行こうと思いました。 ヤンゴンでは、二人のお坊さんをマハシ、チャンミ、パンディッタラーマの瞑想センターへ案内しました。そこは設備が整っているし、外国人も修行しています。クムダセヤドーのところは今建設中で、電気もなければ水道もない。外国人用のクティもない。それで二人にどこが良いかを聞いたら、「クムダセヤドーはお顔が慈しみにあふれていて、日本人的で、あんなセヤドーに教わったら瞑想が進むのではないか」と言うのです。私自身はパンディッタラーマへ行きたかったのですが、二人に従ってシブシブそこへ行くことにしました。
そこはマハシのやり方とは少し違うパオの方法を教えています。これはアーナパーナという呼吸を見るやり方です。とにかく三人でそこに落着きました。ところが行こうと言った本人は1ヶ月で他のお寺へ行ってしまいました。それで二人残って修行をすることになりました。
そこではまず、アーナパーナサティによる、サマタ瞑想から始めます。瞑想は集中力が勝負なんで、若い人、煩悩の少ない人は早く進みます。一緒に行った25歳のお坊さんは、煩悩も少ない方でしたから非常に早く進みました。
サマタ瞑想をやってどうするのかというと、それは禅定を高める一つの方法なのです。なぜここで瞑想の話をするかというと、テーラワーダ協会を作るときに、「サマタはお釈迦様の瞑想ではない。ヴィパッサナーこそがお釈迦様の瞑想であるからサマタ瞑想はすべきではない」と言う風に切り捨てしまったのです。「ヴィパッサナーをすべきで、サマタはすべきでない」と言い続けてきたわけです。それで、今まで、サマタはお釈迦様の瞑想ではないからやってはいけないと、反応してしまうことが多々あったのです。
お釈迦様の瞑想のやり方は、サマタからヴィパッサナーへ移行する方法とヴィパッサナーからヴィパッサナーへという二つの方法があると言われています。マハシの方法は、サマタ瞑想をやらずに、ヴィパッサナーをする、「ヴィパッサナーからヴィパッサナーへ」という方法です。
サマタ瞑想はお釈迦様が作った瞑想ではないけれども、どの経典を調べてもお釈迦様はこの瞑想をやっているということが書いてあります。お手元の資料で、二種考経というのがあります。これを少し読んでみます。122
314pから「比丘たちよ・・・」
これは自分の状態を見るということですから、マハシで言うサティのことではないかと思います。
「比丘たちよ・・・」
少し飛んで370p
「第一禅に達しました。第二禅に・・第四禅に
一生でも
過去の生存を思い出しました。これが第一の明智ですと
これが全部禅定の力でお釈迦様は見ているのです。
解脱しました。第三の明智
観察の土台となるのは禅定の力、とはっきり書いているのです。ですから経典によりますと禅定の力を持って解脱すると書いてあるのです。
このパオの瞑想ははっきり言って出家修行者向きの瞑想なんですね。お釈迦さまの時代の2500年前というのは誰でも出家して、誰でも修行して、誰でも瞑想をしているのです。サンガと言うのもすべてが瞑想者です。ですから修行者しかいないのです。
大般涅槃経の中に、お釈迦様が亡くなるときのことが出てきます。
「第一禅から順に第四禅まで行って、四無色の瞑想も行って」というように亡くなる時に禅定に入って死んでいくんですね。ですから80歳に至るまでお釈迦様がいつでも持っていたのはこの禅定の力なのです。ヴィパッサナーは解脱する時の智慧の瞑想であり解脱すれば必要のないものなんですね。
ではパオでは基本的に瞑想をどうやるかということですけれど、瞑想の方法は「大念住経」と「出入息念経」と2つの経典しかないのです。この2つがお釈迦様が教えている瞑想のやりかたです。最初に出てくるのは、呼吸に意識を向けると言うことです。
ここで、多くの人たちが迷うのはサティ、念という言葉なんです。マハシでは、考えたら「考えた」見たら「見た」というラベリングをサティと言っていますが、パオではサティとは「意識を向けること」と言っています。呼吸に意識を向けるのがサティをしているということです。ですから意識を向けて集中しているということがサティをしているということです。アーナパーナサティという呼吸に意識を集中するやり方ですね。
では、ヴィパサナはどうやるのかというと、集中力であるサマディをどんどん高めていって、第一禅に入り第二禅に入ったならば、大念受経にあるとおり、まず身体を32に分解して観察する方法をとります。これは不浄観の瞑想です。やがて第四禅まで進み、、次に身体の要素である地・水・火・風のエネルギーの観察です。その次に白骨観の観察です。それが出来たならば、四無色の瞑想を行い、第四禅に戻って慈悲の瞑想などもやり、最後にヴィパサナーとなるわけです。
ヴィパサナーは身体の要素である地・水・火・風のエネルギーのひとつを取り出し、そのエネルギーが生まれ、また消滅していく様を、無常・苦・無我と照らし合わせて観察していくのです。その消滅する様を自らが観察することにより智慧が生まれ、我があると思う有身見から離れていくのです。これが預流果の悟りだというのです。それで私はその説明に納得しました。
ただそこまで行くのに、700人修行者がいて年に4,〜5人の人だけが、ヴィパサナーに進めるという狭き門なんです。
それでは出来ない人が多くいて困るということで、誰でもできる方法をマハシセヤドーが開発したのです。マハシはサマタとヴィパサナーを同時にやるサマタ・ヴィパサナーの方法といわれております。
しかし私の経験だとサマタがないと悟りや解脱は難しいと思います。また集中力がないとマハシ式の日常サティも難しいなと思いました。
マハシもゴエンカ式も在家向きの方法ではあるわけです。日本ではこういう方法が心を成長させる一番手近な方法であると思っています。しかし、経典を見るとあらゆる所にサマタ・サマーディが書いてあります。それを抜きにしてはお釈迦様の仏教とは言いがたいのです。中にはヴィパッサナーだけで悟りへ至る人もいます。前世の縁でそういう人もいるでしょう。
私はサマタ瞑想はヴィパッサナー瞑想とは違ってお釈迦様の瞑想ではないので、解脱には必要ないと言って来ました。しかし、修行というものは、サマタ瞑想から積み上げて行くものであるということが分かりましたので、私の間違いをこの場で訂正しお詫びいたします。そして、どの瞑想法を選ぶかは自分で決めてほしいと思います。私としては、在家の人に集中力が必要なパオの瞑想は難しいと思っています。
ただ最終的にこのパオの方法を日本に残したいと思っています。法については、スマナサーラ長老が説いてくださっているので法に近づけるチャンスはたくさんあります。
さらに、日本で出家して、日本で修行して日本で悟るという人が現れる、そういうシステムを作っておきたいという風に思ったのです。私も、一回死にかけましたから、あと何年命が持つか分かりませんけれど、何年かの内に、日本で出家して、日本で修行して日本で悟るというシステムを今後作っていければなあと、思っています。それこそ、日本にお釈迦さまの仏教が伝わったということになるのではと、思っています。
決心したのは、このパオのおかげではないかと思っています。