資料提供 お釈迦さまに帰ろう 照智一生

幸福とは何か

サヤーダウ U.ティッティラ長老

アッガマハパンディッタ

幸福とは何でしょうか。幸福とは心を修養することで達成できる心の状態であり、ゆえに富・名声・名誉・社会的地位・人気などといった単に一時的な幸福のもとである、物質的なものとは根源を異にするものです。私達が何をしようと、それは本質的には幸福のためにしているのであって、これはお金のため、あれは権力のためと言うかもしれませんが、実際にはそれが何であろうとも、本当は幸福のためにしているのです。宗教においてさえ、私達がしていることは幸福のためです。ということは、何であれ私達は本質的には幸福のために行っているということです。しかし私達は幸福を得たのでしょうか。いいえ、得てはいません。なぜでしょう。それは私達が間違った場所に幸福を探しているからです。

お金に幸福を見つけられると思って、人は裕福になるために最大の努力をしますが、さて裕福になった時、彼等は幸せなのでしょうか。もし富というものが幸福の源泉ならば、裕福な人達は貧乏な人達よりずっと幸せなはずです。けれども多くの場合それほど裕福でない普通の人達のほうが、お金持ちな人達より幸せなのに気がつきます。百万長者でさえもが自殺をしようとする、というのを私達は聞きます。もし富が幸福の主要な源泉であるならば、彼等は自殺など決して考えはしなかったでしょう。ですから、富は実際には幸福の源泉ではないというのは明らかです。権力や名声、名誉は幸福の一時的な源泉であるかもしれませんが、名声や名誉や権力を失った時、人は心配したり悩んだりするのです。それは名声、名誉、権力もまた幸福の主要な源泉ではないことを示しています。というのは、それらはまた心配の源泉でもあり、永続しないものだからです。配偶者、気の合った配偶者が幸福の源泉だと思っている人達もいます。ある程度まではそうかもしれませんが、必ずそうだという訳でもありません。子供達が幸福の源泉かもしれないと思っている人達もいます。しかしあれやこれやの理由で子供達から引き離されると、遅かれ早かれそういうことになるのですが、彼等は不幸を感じます。競馬や競犬が幸福の源泉かもしれないと思いそれに賭ける人達もいますが、たとえ賭けに勝ったとしても幸福はほんの束の間です。またお酒を飲むことに幸福を見出そうとする人達がいます。彼等はほんの一時幸せになりますが、最後には以前と同じように不幸になるのです。外側の源泉は本当の幸福の源泉ではありません。大切なのは心です。コントロールがとれて修養されている心のみが真の幸福の源泉なのです。

ではどうしたら幸福が得られるのでしょうか。幸福はどのように定義できるのでしょうか。幸福というのは状態、心の状態であり、その人の本質に一致するもの、またはその人の本質に訴えかけるもの、その人の本質を満足させるものであり、物質的あるいは物質主義的、感情的、知的、霊的といった様々なレベルに適応しています。

話を明瞭にするために、美味しい昼食または夕食を例に取りましょう。楽しい昼食または夕食の機会が生じた場合、もしあなたが物質的な達成を誇りに思っている人ならば、あなたは物質的で、肉体的な性質の幸福を得るでしょう。身体を作るための、肉体の健康のための食べ物を喜び、食べ物から物質的な幸福を得るでしょう。もしあなたが長いこと待ち侘びていた物を食べるのだとしたら、あなたは感情的な性質の幸福を得るでしょう。「これは好きだ。だってこれはとてもいいし、とても美味しいから」とあなたは言うでしょう。あなたは昼食または夕食を賞賛します。理由はそれが美味しいからです。あなたは食事から、食事を通して幸福を得ます。ですからあなたの幸福は感情的なものであり、それが身体を強化するとか健康にするとかには関心がなく、単に美味しいということなのです。もしあなたが知的で理屈に関心があり、たまたまダイエットをしていたとしたら、知的な性質の幸福を感じて言うでしょう、「私の健康に合っているからこの食べ物はとてもいい」と。あなたは知的に食べ物を判断するでしょう。もしあなたが霊的な性質の人だった場合、それでも昼食または夕食に幸福を見出すでしょうが、あなたは、「この食べ物はいい。それはこれが清浄だからだ。それは倫理の原理のために良いものだ。これはいい。というのはその影響が瞑想の助けになるからだ」と言うでしょう。ですからこの場合あなたの幸福は違っていますし、判断もほかの人達とは違っています。全く同じ食べ物あるいは昼食が賞味され、得られる幸福は人の性質によるのです。人が得られる最高の幸福は、すべてのレベルに一致し満足させる状態、心の状態なのですが、このような状態を得ることが常に可能だとは限りません。最高の幸福、つまりすべてのレベルを満足させるものが得られないなら、次はより高いレベルと調和するもので、それはより低いレベルとの調和よりも大きな幸福を得ることができます。

私達は自分の本質に応じてものごとを判断し、反応し、理解するので、自分がどんなタイプの人間であるのか知ることは、私達一人一人にとって必要なことです。私達は自分の本質に応じて外界の刺激に行為し反応するのです。つまり私達は自分自身の色眼鏡を通してあらゆるものを見るのであって、ゆえにもしある人が寛大で偏見がないといっても、彼は彼自身の本質の範囲でのみそうあることができるのです。霊的に進化していない限りは、誰もがとても寛大で偏見がないという訳にはいきません。それは私達がものごとを見たり判断したりする時に、自分自身の色眼鏡を通しているからであり、その眼鏡は自分で作ったもので、他の誰かがその人のために作った眼鏡ではないからです。では私達がどんなタイプの人間であるのか、どうやって知ることができるのでしょう。それはただ外界の刺激に対する自分自身の反応を個人的に調べることによってのみ、自分の反応を観察し気づくことによってのみ、私達は自分を一つのカテゴリーに入れることができるのです。

さて、最初は物質的、肉体的レベルです。このレベルの人は物質主義的であることから、物の獲得に興味を持つでしょう。彼は主に物質獲得を考えそれに集中していて、物質的・肉体的安逸が彼にとっては大切です。これら物質主義的人達はたいへん実用的で、すべてが、宗教や哲学でさえも、物質的に「使えるもの」でそれ以上ではないことを望んでいます。思考や精神集中を要求するものには彼等は魅力を感じず、宗教や哲学にも関心がなく、彼等が興味を持つのは肉体的な安楽であり、物質の獲得に役立つ考えなのです。ですから、多くの人達がどんな宗教にも興味を示さなくても何の不思議もありません。というのはご存知のように、宗教は直接には誰にも物質的または肉体的富を与えないからです。世界中で宗教に興味を失った人達がどれだけいるか、あなたはご存知でしょうか。ほとんどの人にとっては物を獲得することがたいへん重要なことなのです。私達が忙しいと言う時、私達は得ること、お金に忙しいのです。何のためでしょうか。肉体的快楽、幸福、安逸、服、食物、家、など肉体の便宜です。ですから私達のほとんどが、むしろ物質主義的だというのが分かります。

次は感情的なレベルです。このレベルの人達はたいへん繊細で、主に好き・嫌い、快・不快、感覚に関心を持っています。彼等は、それが正しかろうと間違っていようと、自分の感情によってものごとを判断します。これら感情的人達は、彼等の感情を満足させる献身的な宗教に興味を持ち、儀式のない宗教をたいへん退屈に感じます。

三番目レベルは知的なものです。このレベルの人達は、主に理屈やものごとを知的に研究することに関心があります。彼等は文学、科学などに幸福を見出し、知的追求を通して幸福を得ますが、精神面で活動的であるために肉体面では活動的ではありません。読書や学習を通して多くを知っていますが、実際には活動的ではないのです。

四番目は霊的あるいは倫理的なレベルです。このレベルの人達は奉仕や共感に関心があります。彼等は正義の重要性、公明正大なことを強調します。彼等は現実的です。さて、人はそれぞれ自分自身の性質に応じて、自分自身のレベルに応じて行為し、ものごとに反応し、批判し、感じ、判断する、というのがお分かりでしょう。私達の考え、感情、判断、そして人生観がどのように、そしてなぜ違うのかを知ることで、私達は他のタイプの人が彼等の性質に応じて行為するのを寛大に許すことができ、それによって他人に対する寛容と忍耐の心を養うことができるのです。

霊的にあまり進化していない時は、物質的、感情的な快楽や幸福が最も興味をそそります。残念なことにある人達は、そこから決して脱け出そうとしません。この低いステージにおいてさえある人達はたいへん誇りに思い、世の快楽を手に入れたと感じた時に幸福を達成したと思って、そこから外に出ようとはしないのです。彼等は自分達にとって退屈に聞こえるニッバーナには興味を持たないでしょう。なぜでしょうか。彼等は霊的にそれほど進化していないからです。彼等が霊的に進化すると、文学、科学、哲学などの研究が彼等の興味をそそります。読書や学習さえ評価できない人達もいます。彼等はそれが時間の浪費であり、読書は無益なことだと思っています。大多数の西洋人はたいへん実利的で、とても忙しく肉体的に活発です。ある機会にイギリス教会の牧師がニッバーナのことで私に尋ねました。「ニッバーナについては二・三語で、短時間で説明することはできません」、と私は答えました。彼が自分はいつも忙しいと言うので私は、「忙しいというのなら、どの位時間を割くことができるのか」と訊きました。「時間はないのです。ただ二・三語で言ってください」。私は言いました。「ニッバーナというのは、苦しみ、老い、死、病気から自由になった状態であり、あらゆる問題、心配、苦難のない至高の幸福な状態です」。彼は言いました。「もしニッバーナに到達したら何もすることがない、という意味ですか」。「そうです」と私は言いました。「それなら欲しくありません。私はいつも何かしていたいのです」と彼は答えました。別の人が、彼は詩や科学を鑑賞したり理解したりすることができない、どちらもある人達に何か独特な楽しみを与えているように思える、と言いました。彼は、最高に美しい絵画が展示されている国立美術館に行ってみたが、観覧客は馬鹿だ、なぜなら、もし人が本当の美を見たいのならどうしてこんなイミテーション見なければいけないのだろう、と思ったと言いました。詩というのは、と彼は考えます、言葉の適切な秩序がないので、言語を損なうものなのです。彼にとって文学は何の意味もありません。ですからご覧のように、発達には多くのステージがあるのです。成長してくると、倫理的あるいは霊的幸福が純粋で最も高いものであるのを理解します。なぜならそれが真実で永続するものだからです。人は自分の実際の性質に応じて行為と反応をし、それによって自分自身を幸福あるいは不幸にしているのです。

この成長、低いレベルからより高いレベルへの進化を達成することは可能であり、実はそれほど難しいことではありません。ニッバーナそれ自体がこの生で到達可能ですが、もしそれが私達のほとんどが考えているように難しいものだとしたら、なぜ私達はダンマの六つの性質を持っているのでしょう。仏陀自身このダンマの六つの性質について、何度も繰り返し言っています。そのうちの一つがサンディッティカ、すなわち即時の影響です。もしそれが本当なら、なぜ私達は真実の幸福を得ることができないのでしょう。ニッバーナはいつでも、アカーリカ、達成することができます。明日も来月もありません。あなたは自分自身の努力と理解によって達成することができるのです。人生に目的があるのでしょうか、と私に尋ねる人達がいます。それには私は、「はい、あります」と答えます。人生の目的とは成長であり、無知から覚醒への、不幸から幸福への進化なのです。仏陀自身何度も言っています、目的は自身の覚醒であると。ギリシャ哲学者の一人は、彼はこの世にたった一つの目的のために生まれた、それは自分自身の完成である、と言いました。ですからこの成長、この進化は、今ここで可能なのです。運動を続けることで筋肉を発達させることができるように、私達の心も発達させることができます。私達は確かに完成に至ることができるのです。霊的には幸福の達成とニッバーナの実現を通じて、知的には知識の達成を通じて、感情的には感情のコントロールとその有益な使用を通じて、肉体的には運動とまた肉体のコントロールを通じて、完全な健康を達成することができるのです。

それぞれのレベルに行為があり、それはその行為から発展していく未来だけでなく、行為を導き出した過去を持っています。行為は心の顕現であり、どんなものに対する欲望も心を刺激します。それぞれの段階に行為と反応があります。すなわち、原因と結果です。ですからコントロールしなくてはならないのは、外界の刺激に対する私達の反応です。この行為と反応はすべてのレベル、つまり運動の肉体レベル、感覚の感情レベル、思考の知的レベル、認識の霊的レベルで働きます。それぞれのレベルには良い面・悪い面、長所・短所があります。たとえば物質主義的な性質の悪い面を現している人は、物質の力、物質の武器を使って、肉体的に危害を加えて痛みを生み出します。物質レベルの良い面では、彼は肉体的に良い行為をすることができます。ですから誰もが奉仕のために肉体的な行為をし、それによってこのレベルからより高いレベルへと成長しなくてはならないのです。

知的にまた感情的に何をしようと、あなたがそれを肉体面で実行するまでは完璧ではありません。ある話があります。かつて洗濯石というものがありました。多分西洋人にはそれが何なのか分からないでしょう。聴衆の中のあるイギリス婦人がかつて尋ねました。「洗濯石というのは何ですか」。そんなものは聞いたことがなかったのです。私は説明しました。洗濯石というのは東洋で使う平らな石で、その上で汚れた服を石鹸をつけたり石に打ち付けたりして洗うものです。さて、ある時、村の外に、地域の村人達が使っているそんな石がありました。ある日地質学者がやって来て、その石が宝石の断片をたくさん含んでいるのを見つけました。彼は、こんな貴重な石を洗濯のためだけに使っている村人達は無知だと思い、その石をもっといい新しい石に替えるよう、村長を含むすべての村人を説得しました。彼等はみな同意して、地質学者は前よりもっと広くて美しい石を彼等に与え、古い石を持ち去りました。村人はみな喜んで彼に感謝しましたが、彼のほうはもっと彼等に感謝しました。なぜなら、その石から貴重な宝石を取り出すことができたからです。

仏陀は私達みなに、無知な村人ではなく地質学者のようであるように、とアドバイスしています。私達は自分の身体を快楽のためだけではなく奉仕のために使うべきであり、そうすることで私達は求めようとそうでなかろうと、完全な体形、完全な健康を得ることになるのです。ボーディサッタはどこへ行こうと、精神的にも肉体的にも奉仕を行い、それは仏陀としての彼の最後の人生においてでさえそうでした。自分の汚物の中に落ちた病気の僧の話を覚えているでしょうか。誰も彼を助けようとはしませんでした。仏陀は躊躇せずに僧の汚物で汚れた衣を取り去り、自分でそれを洗ったのです。彼にとっては体面を気にすることなど、この世に何もないのです。

世界のあらゆるものは非永続的なものなので、この世の物質的なものには真実で永遠の幸福などあり得ません。これは、もしそれを脱出する道があるという事実がなかったら、悲観的な見解の最たるものでしょう。その道とは物質を越えた真実の幸福であり、それがこの見解を現実的で楽観的な見解に変えるのです。

修養が答えです。それは必ずしも肉体的なものではなく、心の、さらにより高い倫理の性質の修養であり、それによってニッバーナが達成されるのです。

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