資料提供 お釈迦さまに帰ろう 照智一生

実践ヴィパッサナー瞑想訓練

マハーシー・サヤーダウ

ヴィパッサナーの実践、つまり洞察瞑想というのは、瞑想者が自分自身の体に起きている心身現象の性質を、正確に理解しようとして行う努力のことです。身体現象というのは、人がはっきりと自分のまわりに知覚することができるものごと、または対象のことです。

人がはっきりと知覚する身体は、物質のあつまり(ルーパ)から成っています。心・精神現象は意識の行為、つまりアウェアネス(ナーマ)です。これら(心・ナーマ)・(物質・身体・ルーパ)は見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりする時には眠らない限り、いつでも、はっきりと知覚されます。

私達はそれらを観察し、「見ている、見ている」、「聞いている、聞いている」、「嗅いでいる、嗅いでいる」、「味わっている、味わっている」、「触れている、触れている」、「考えている、考えている」というように、気づくことによって、今何をしているのかを自分で認識し意識するようにしなくてはなりません。

見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりする時にはいつも、その事実に気づかなくてはいけません。けれども実践の最初の頃には、これらの出来事すべてに気づくことはできないものです。ですから、目につきやすくて認識しやすい出来事から始めるべきです。

まず座って座禅して呼吸という行為を観察します。呼吸という行為が起こるたびに腹部は上がったり下がったりしますが、このような動きはいつもはっきりとしています。これはヴァーヨダートゥ(動きの要素)として知られる物質の性質です。この動きから始めるべきです。それには、心で腹部を集中的に観察するとよいでしょう。あなたは息を吸うと腹部が上がり、息を吐くと下がるのに気づくでしょう。上がる時には心の中で「上がる」と、下がる時には「下がる」と気づきましょう。心で気づくだけでは動きがはっきりしない場合は、掌で腹部に触れていましょう。呼吸の仕方を変えてはいけません。遅くしたり速くしたりしてはいけません。あまり元気よくやりすぎてもいけません。呼吸の仕方を変えたりすると疲れてしまうでしょう。いつものように一定した呼吸をして、腹部が上がったり下がったりしたらそれに気づくことです。声に出さずに、心の中で気づきましょう。

ヴィパッサナー瞑想では、どう名づけるか何を言うかは問題ではありません。本当に大切なのは知ること、認めることです。腹部の上がりに気づいている時には、それを目で見ているかのように、動きの最初から最後まで気づくのです。あなたのアウェアネス(気づき・認識)が動きそのものと同時に起きているように、上がる動きに気づきましょう。動きとそれに対する心のアウェアネスは、投げた石が標的をヒットするのと同じように、同時に起こらなくてはなりません。下がる動きも同じようにします。

腹部の動きに気づいている間に、あなたの心・意識(マインド)はどこかへさまよってしまうかもしれません。これもまた心で「さまよっている、さまよっている」と言って気づかなくてはなりません。一・二度これに気づいたらマインドはさまようのを止めるでしょう。そうしたら腹部の上がり下がりに気づくことに戻りましょう。もしマインドが腹部以外のどこかに行ってしまったら、「考えてる・考えてる」と心の中で言いながら気づきます。そして腹部の上がり下がりに戻るのです。もし誰かに会っていると想像したならば、「会っている、会っている」と気づきます。そして上がり下がりに戻るのです。誰かに会って話していると想像したなら、「話している、話している」と気づくのです。

要するに、どんな想念や映像が起ころうとそれに気づかなくてはならないのです。想像しているのなら「想像している」と気づき、考えているのなら「考えている」、計画しているのなら「計画している」、認識しているのなら「認識している」、回想しているのなら「回想している」、幸せなら「幸せ」、退屈なら「退屈」、嬉しいなら「嬉しい」、がっかりしたなら「がっかりした」です。これらすべての意識の行為に気づくことをチッターヌパッサナーと言います。

これら意識の行為に気づくことができないために、私達はそれを人や個人と同一化しやすいのです。想像したり、考えたり、計画したり、知ったり(認識したり)するのが「私」であると考えてしまうのです。私達は、子供の時からずっと生きて考えている人がいる、と思うのです。実際にはこのような人は存在しません。そうではなくてただ、このような連続した継続的な意識の行為があるだけなのです。それで私達は意識の行為が生じたら、一つ一つそれに気づかなくてはならないのです。そのように気づく時、それは消えてしまうでしょう。そうしたら腹部の上がり下がりに戻るのです。

長いこと瞑想して座っていると、緊張や熱が体に生じるでしょう。これらにも注意深く気づかなくてはなりません。痛みや疲れの感覚も同じです。これらの感覚はすべてドゥッカヴェダナー(不満足の感覚)であって、それに気づくことはヴェダナーヌパッサナーです。これらの感覚に気づくことに失敗したり見過ごしたりすると、あなたは考えるでしょう。「体がこわばっているし、熱いし、痛い。さっきまで良くできていたのに。今は不快な感覚で苛々している」。これらの感覚と自我を同一化するのは間違っています。本当に「私」というものは関係ないのです。ただ新しい不快な感覚が次々に起こっているだけです。

それは電球を光らせる新しい電気インパルスが、連続して続いているようなものです。体が不快なものに遭遇するたびに、不快な感覚は次から次へと生じます。これらの感覚に注意深く、一心に気づかなくてはなりません。それはこわばりでしょうか、熱さでしょうか、痛みの感覚でしょうか。ヨギが瞑想を実践して初めの頃は、これらの感覚はだんだん大きくなっていって姿勢を変えたいと思うかもしれません。この欲望に気づきましょう。その後で、ヨギはこわばりや熱さなどの感覚に対する気づきに戻るべきです。

ミャンマーの格言が言うように、「忍耐はニッバーナへと導く」です。この格言は瞑想への努力に最も当てはまります。瞑想においては忍耐しなくてはなりません。もしこわばりや熱さの感覚が生じてそれに耐えられないために、しょっちゅう姿勢を変えるのであれば、サマーディ(良い精神集中)を発達させることはできないでしょう。サマーディを発達させられなければ洞察は起こらず、そうすればマッガ(ニッバーナ。涅槃へと導く道)、ファラ(その道の果)、そしてニッバーナを達成することは不可能です。それで瞑想には忍耐が必要なのです。それはほとんどがこわばり、熱さや痛みの感覚、その他の耐えがたい感覚といった、体に起こる不快な感覚に対しての忍耐です。このような感覚が生じたらすぐさま降参して、瞑想の姿勢を変えてはいけません。ただ「こわばり、こわばり」とか「熱い、熱い」と気づいて忍耐強く続けなくてはなりません。この種の穏やかな感覚は、それに忍耐強く気づくことで消えてしまうでしょう。精神集中がよくできていて強力であれば、強烈な感覚でさえ消えてしまうでしょう。そうしたら、腹部の上がり下がりに気づくことを再び始めるのです。

もちろん、長いこと気づいているのに感覚が消えない時や、それどころか耐えがたくなった時には姿勢を変えなくてはなりません。その時は、「変えたい、変えたい」と気づき始めなくてはなりません。腕が上がったら「上げる、上げる」と気づきます。腕が動いたら「動かす、動かす」と気づきます。姿勢を変える時にはゆっくりと、「上げる、上げる」、「動かす、動かす」、「触れる、触れる」と気づきながら行います。

もし体が揺れたら「揺れる、揺れる」と気づきます。足が上がったら「上がる、上がる」、動いたら「動く、動く」、下に落ちたら「落ちる、落ちる」と気づくのです。もし変化がなくただ静かに休んでいるなら、腹部の上がり下がりの気づきに戻りましょう。間で途切れてはいけません。先立つ気づきの行為と次の気づき、先立つサマーディ(精神集中の状態)から次のサマーディ、先の知性から次の知性の間は一続きでなくてはいけません。そうして初めてヨギの知性の状態は、継続してだんだんと成熟していくのです。マッガ・ニャーナとファラ・ニャーナ(道と果の智慧)は、このように勢いが集まって初めて達成されます。瞑想のプロセスは、(炎が生じる時に)必要なだけの熱を生み出すために二本の木の棒を力強く、休む間もなく摩擦して、火を起すようなものなのです。

これと同じように、ヴィパッサナー瞑想における気づきというのは、どんな現象が起ころうと気づきの行為の間に間隔がなく、継続的で絶え間のないものでなくてはならないのです。たとえば、痒みの感覚が邪魔をして、それが耐えられないので掻きたいとヨギが思うとしたら、その感覚を掻くことによってすぐに取りのぞくのではなく、感覚とそれを取りのぞきたいという欲望の両方に気づかなくてはなりません。

もしこのように根気よく気づき続けるとしたら、痒みはたいがい消えてしまうので、そうしたらまた腹部の上がり下がりに気づき始めましょう。もし痒みが実際に消えなかったら、もちろんそれを取りのぞくには掻かなくてはなりません。けれどもまず、そうしたいという欲望に気づかなくてはなりません。この感覚を取りのぞくプロセスに含まれるすべての動き、特に触れたり、引っ張ったり、押したり、掻いたりする動きに気づいて、最後に腹部の上がり下がりに返ってくるのです。

姿勢を変える時はいつも、変えたいという意向、つまり欲望に気づくことから始めて、座っている姿勢から立ち上がる、腕を上げる、それを動かして広げるといったすべての動きを詳細に見続けましょう。姿勢を変えながら、それと同時にそれに含まれる動きに気づいていなくてはならないのです。体が前方に揺れたら、それに気づきましょう。立ち上がる時には、体は軽くなり上がるのです。心をこれに集中しながら、ゆっくりと「立ち上がる、立ち上がる」と気づかなくてはなりません。

ヨギ修行者は弱々しい病人であるかのようにふるまわなければなりません。健康な人は簡単に、さっと突然立ち上がります。弱々しい病人はそうではなく、ゆっくりと静かに立ち上がるのです。これと同じように、「背中の痛み」で苦しんでいる人は、背中が痛んだりしないように静かに立ち上がるのです。

瞑想しているヨギも同じです。姿勢を変えるには少しずつ静かにやらなくてはいけません。そうして初めて気づき、精神集中、洞察をよくできるのです。ですから静かでゆっくりとした動きで始めましょう。立ち上がる時にはヨギは病人のように穏やかにしなくてはならず、同時に「立ち上がる、立ち上がる」と気づきましょう。これだけではありません。目には見えても、ヨギは目が見えないかのようにふるまわなくてはなりません。耳についても同じです。瞑想中は、ヨギの関心はただ気づくことだけです。何を見るか、何を聞くかは関係ありません。ですからどんなに奇妙で目を見張るようなことを見たり聞いたりしても、見えたり聞こえたりしていないかのようにふるまい、ただ注意深く気づいていなくてはならないのです。

体を動かす時には、ヨギは弱々しい病人のようにゆっくりと、静かに腕や足を動かしたり、それを曲げたり伸ばしたり、頭をかがめたり戻したりしなくてはいけません。これらの動きすべてを穏やかにすべきです。座っている姿勢から立ち上がる時にはゆっくりと、「立ち上がる、立ち上がる」と気づきながらすべきです。まっすぐになって立っている時は「立っている、立っている」と気づきましょう。あちこちを見ている時には「見る、見える」と気づきます。歩いている時は足の運び、それが右足なのか左足なのかに気づきます。足を上げるところから始まって下ろすところまで、含まれる連続した動きすべてに気づかなくてはなりません。右足であろうと左足であろうと、その一歩ずつに気づきましょう。これが速く歩く時の気づき方です。

速く歩いている時、しばらく歩く時にはこのように気づくだけで十分でしょう。ゆっくりと歩く時やチャンカーマ歩行(行ったり来たりする歩行)をしている時は、一歩ごとに三つの動きに気づかなくてはなりません。足を上げた時、足を前に押し出した時、足を下に下ろした時です。上げる動きと下げる動きに気づくことから始めましょう。足を上げていることに正しく気づかなくてはいけません。同じようにして足を下げた時には、足が「重たく」落ちることに正しく気づかなくてはいけません。

一歩ごとに「上げる、下げる」と気づきながら歩きましょう。二日ほどするともっと簡単にこのように気づくようになるでしょう。そうしたらすでに述べたように、三つの動き「上げる、押し出す、下げる」に気づくようにしましょう。最初は一つか二つの動きに気づくだけで十分でしょう。つまり、速く歩いている時には「右、左」、ゆっくり歩いている時には「上げる、下げる」です。こうして歩いていてもし座りたくなったら、「座りたい、座りたい」と気づきます。実際に座る時には、体が「重たく」落ちていくことに集中して気づきましょう。

座っている時には足や腕を配置するための動きに気づきます。そのような動きがなくてただ体が静かな(静止している)時には、腹部の上がり下がりに気づきましょう。このように気づいていて、手足がこわばったり体のどこかに熱さを感じたりしたなら、それに気づきましょう。そして「上がる、下がる」に戻るのです。こうして気づいている間にもし横たわりたくなったら、それに気づいて、横たわる時には足や腕の動きに気づきましょう。腕を上げる、その動き、肘を床に着く、体が揺れる、足を伸ばす、ゆっくりと横たわる準備をしている時に体が傾く、このすべての動きに気づかなくてはなりません。

横たわる時にこのように気づくことが大切です。この動き(つまり横たわること)の過程で、あなたは特別な智慧(つまりマッガ・ニャーナとファラ・ニャーナ=道と果の智慧)を得ることができるのです。サマーディ(精神集中)とニャーナ(洞察)が強力な時には、特別な智慧はいつ何時でもやって来る可能性があるのです。それは腕を「曲げ」たり腕を「伸ばし」たりという最中にもやって来るのです。このようにしてアーナンダ長老はアラハントになったのです。

アーナンダ長老は最初の仏教会議の前夜、一晩でアラハントの境地を達成しようと精力的に努めていました。彼はカーヤガターサティとして知られるヴィパッサナー瞑想の形態を、夜通し実践していました。それは足の運び、右と左、上げる、押し出す、足を下ろすに気づくこと、起こること、歩きたいという欲望、歩くことに含まれる体の動きに気づくことです。こうしてほとんど夜明けまで続けましたが、彼はアラハントの境地を得ることに成功しませんでした。歩く瞑想をやりすぎたのに気づいて、サマーディ(精神集中)とヴィリヤ(努力)のバランスを取るには、しばらく横たわった姿勢で瞑想をすべきだと思って、彼は部屋へ入りました。長椅子に座り、そして横たわったのです。そうして「横たわる、横たわる」と気づいているうちに、彼は一瞬のうちにアラハントの境地を達成したのです。

こうして横たわる前には、アーナンダ長老はソーターパンナ(預流、流れに入った者、ニッバーナへの道の上で最初の段階に達した者)でしかありませんでした。ソーターパンナの境地から、彼は瞑想を続けてサカダーガーミの境地(一来、一度だけ還る者、道の上で第二の段階に達した者)、アナーガーミの境地(不還、二度と還らない者、道の上で第三の段階に達した者)、そしてアラハントの境地(阿羅漢、道の上の最後の段階に達した聖者)へと至ったのです。道の高い三段階に到達したのはほんのわずかな時間でした。ちょっとこのアーナンダ長老のアラハントの境地の例を考えてみてください。このような達成はいつ何時でも起こりえますし、時間もかからないのです。

ですからヨギは、いつも熱心に気づいていなくてはならないのです。「この些細な時間などたいしたことはない」と考えて、気づきを緩めてはなりません。横たわることに含まれる動きすべて、腕や足の配置に注意深く、たゆみなく気づいていなくてはならないのです。何も動きがなくて(体が)静止しているだけなら、腹部の上がり下がりへの気づきに戻りましょう。夜遅くなって眠る時間であっても、ヨギは気づきを止めて眠りについてはいけません。真に真剣で精力的なヨギは、睡眠を完全に先送りしてでもいるかのように気づきを実践しなくてはなりません。眠りに落ちるまで瞑想し続けなくてはならないのです。瞑想が順調で優勢であれば、彼は眠らないでしょう。その反対に眠気が優勢であれば、彼は眠ってしまうでしょう。眠気を感じたら「眠い、眠い」と気づき、瞼が下がってきたら「下がる」、瞼が重く鉛のようになったら「重い」、目がうずいてきたら「うずく」と気づくのです。このように気づくことで眠気は過ぎ去って、また「はっきりと」するかもしれません。

そうしたらヨギは「はっきり、はっきり」と気づいて、それから腹部の上がり下がりに気づかなくてはなりません。どんなに根気よくヨギが瞑想を続けても、本当の眠気が襲ってくれば眠りに落ちます。眠りに落ちるのは難しいことではありません。実際それは簡単なことです。横たわった姿勢で瞑想していたら、あなたはだんだん眠くなり、ついには眠ってしまうでしょう。ですから瞑想の初心者は横たわった姿勢で瞑想をしすぎてはいけないのです。彼はもっと座ったり歩いたりという姿勢で瞑想すべきです。けれども遅くなって眠る時間になったら、横たわった姿勢で瞑想をして、腹部の上がり下がりに気づくようにしなくてはなりません。そうすれば自然に(自動的に)眠りに落ちるでしょう。

眠っている時間はヨギにとっては休息の時間です。けれども本当に真剣なヨギであれば、睡眠時間を四時間位に限るべきです。これは仏陀が許した「真夜中の時間」です。睡眠は四時間で十分です。瞑想の初心者で四時間の睡眠では健康のために十分でないと思うのであれば、五時間か六時間に延ばしても構いません。六時間の睡眠は疑いなく十分です。

ヨギは目が覚めたらすぐに気づきを再開すべきです。マッガ・ニャーナとファラ・ニャーナを達成する決心を本当にしているヨギが瞑想の努力から離れるのは、眠っている時だけであるべきです。その他の起きている時は、絶えることなく休みなく気づき続けなくてはなりません。ですから目が覚めたらすぐに、マインドが覚めた状態を「目覚める、目覚める」と気づくべきです。もしこれに気づくことができないのであれば、腹部の上がり下がりに気づき始めなくてはなりません。

ベッドから起き上がろうとするのなら、「起き上がりたい、起き上がりたい」と気づくべきです。そうして腕や足を配置する時に起こる動きに気づき続けましょう。頭を上げて起きる時には「起きる、起きる」と気づきます。座る時には「座る、座る」と気づきます。腕や足を配置する時に起こる動きには、すべて気づかなくてはなりません。もしこのような動きがなくてただ静かに座っているのであれば、腹部が上がったり下がったりする動きに気づきを戻しましょう。

顔を洗う時、入浴する時にも気づきをもってすべきです。これらの行為に含まれている動きはむしろ速いものなので、そのうちのできる限り多くに気づくようにすべきです。その次ぎには服を着る、ベッドを片づける、ドアを開けたり閉めたりする行為があります。これらにもすべてできる限り詳しく気づきましょう。

ヨギが食事をして食卓を見る時には、「見る、見える、見る、見える」と気づかなくてはなりません。食べ物に手を伸ばす、それに触れる、それを手にして盛り付ける、つかんで口に持ってくる、頭を下げて一口の食べ物を口に入れる、腕を下ろして頭をまた上げる、これらの動きすべてにしっかりと気づいていなくてはならないのです。(この気づきのあり方は、ビルマの食事の仕方に基づいています。フォークとスプーン、または箸を使う人は、それに合わせた気づきを行いましょう。)

食べ物を噛む時には「噛む、噛む」と気づかなくてはなりません。食べ物の味が分かったら「分かる、分かる」と気づきます。食べ物を味わってそれを呑み込む時、食べ物が喉を下っていく時、起きていることすべてに気づきます。これが、ヨギが食べ物を一口一口食べる時に気づくやり方です。スープを飲む時には、スプーンの動きやすくう動きなど、すべての動きに気づかないといけません。食事の時間にこのように気づくのはかなり難しいでしょう。観察したり気づいたりすることがたくさんあるからです。初心者のヨギは気づかなくてはならないことをいくつか見落とすでしょうが、すべてに気づくのだという決心をすべきです。もちろん、あることを見過ごしたり見落としたりせずにはいられないでしょうが、サマーディ(精神集中)が強力になってくれば、彼はこれらすべての出来事を詳細に気づいていられるようになるでしょう。

さて、ヨギが気づかなくてはならないことをたくさん言いました。けれども要約すれば、気づくことはほんの少数しかありません。速く歩いている時は「右」「左」と気づきます。ゆっくり歩いているならば「上げる、下ろす」です。静かに座っている時は、ただ腹部の上がり下がりに気づきます。横たわっている時に、特に何も気づくものがない時も同じです。このように気づいていてマインドがさまよったなら、そこで起きる意識の行為に気づきます。そうして腹部の上がり下がりに戻ります。こわばり、痛み、疼き、痒みなどの感覚もそれが起こったら気づきます。そうして腹部の上がり下がりに戻ります。また頭を曲げたり上げたり、体が揺れたり真直ぐになったりなども、それが起きた時に気づきます。そうして腹部の上がり下がりに戻るのです。

このように気づき続けていると、ヨギはもっともっとこれらの出来事に気づくことができるようになります。最初、マインドがあちこちにさまよっているうちは、多くのことを見過ごすでしょう。けれども落胆してはいけません。瞑想の初心者は誰でも同じ困難に遭遇するのです。しかしもっと訓練をすることでマインドがさまよう行為すべてに気づくようになり、ついにはマインドはさまよわなくなるでしょう。そしてマインドは注目の対象に固定して、気づきの行為は腹部の上がり下がりなど、注目の対象と同時に起こるようになるでしょう。(言い換えれば、腹部の上がりはそれに気づく行為と同時に起こり、腹部の下がりも同様なのです。)

注目する体の対象と、それに気づく精神の行為は一対になって起こります。この出来事には人つまり個人は関わっていなくて、この注目の体の対象と気づいている精神の行為が一対として起こるのです。ヨギはそのうちにこれらの出来事を実際に、個人的に体験するでしょう。腹部の上がり下がりに気づいているうちに、彼は腹部の上がりを身体現象として、それに気づく精神の行為を心理現象として区別するでしょう。同じように下がる時には、これらの心身現象が一対になって、同時に起きていることを理解するでしょう。

このように気づきのそれぞれの行為と共に、ヨギはあるのはただアウェアネス、つまり注目の対象であるこの物質の性質と、それに気づく精神の性質だけだということを自分ではっきりと知るでしょう。この識別する知識はナマルパ・パリッチェダ・ニャーナと呼ばれ、ヴィパッサナー・ニャーナの始まりです。この知識を正しく得ることは大切なことです。原因と結果を識別する知識はパッチャヤ・パリッガハ・ニャーナと呼ばれています。

気づき続けていくに従ってヨギは、生じたものはしばらくすると消え去るということを自分で見ることでしょう。ふつう人は物質現象も精神現象も人生を通して、つまり若い時から成人するまで永続するものと見なしています。実際にはそうではないのです。永遠に続く現象というものはありません。あらゆる現象は速やかに生じては消えていくので、それらは瞬く間も継続しはしないのです。気づき続けていくに従って、ヨギはこのことを自分で理解するようになるでしょう。そして彼はこのような現象の無常性を確信するのです。この確信をアニッチャ・ヌパッサナ・ニャーナと言います。

この知識にはドゥッカ・ヌパッサナ・ニャーナが続きますが、それはこの無常はすべて苦しみだという理解です。ヨギはまた体の中にあらゆる種類の苦痛を感じるでしょうが、それは苦しみの集まりです。これもまたドゥッカ・ヌパッサナ・ニャーナです。次にヨギは、これらすべての心身現象はそれ自体で生じ、誰の意志に従うでもなく誰がコントロールできるのでもないことを確信します。そこにはどんな個人も我という実体もありません。この理解がアナッタ・ヌパッサナ・ニャーナです。

瞑想を続けていってこれらの現象はすべてアニッチャ、ドゥッカ、アナッタであることを確信した時、ヨギはニッバーナを達成するのです。今までの仏陀、アラハント、アーリヤ達はみな、まさにこの道を歩んだのです。瞑想しているヨギ達はみな自分自身が今このサティパッターナの道の上にあり、マッガ・ニャーナ(道の智慧)、ファラ・ニャーナ(道の果の智慧)、そしてニッバーナを達成したいという願いを成就しようと、自分のパーラミー(徳の完成)の成熟に従っている、ということを認識しなくてはなりません。彼等はこのことと、そして仏陀やアラハント、アーリヤ達が体験し、彼等が未だ体験したことのなかった高貴なサマーディ(精神集中によってもたらされた心の静けさ)とニャーナ(超越的な知識、智慧)を体験することがいずれできるのだ、ということを喜ぶべきです。

自分自身で仏陀やアラハント、アーリヤ達の体験したマッガ・ニャーナ、ファラ・ニャーナ、ニッバーナを体験する日はそう遠いことではありません。実のところ、それは一ヶ月、二十日、十五日の瞑想の実践で体験できるかもしれないのです。特別にパーラミーが優れている人なら、これらのダンマ(すなわちマッガ・ニャーナ、ファラ・ニャーナ、ニッバーナ)を七日以内で体験することさえ可能なのです。

ですからヨギは、これらのダンマを上記の期間で達成するであろうこと、サッカヤ・ディッティ(我という信念)とヴィチキッチャー(疑い、不確実性)から免れるであろうこと、そして下層世界へ生まれ変わる危険から救われていることを信じて、安心すべきなのです。この信念をもって彼は瞑想の実践を行うべきです。

あなた方すべてがよく瞑想の実践を行うことができ、仏陀やアラハント、アーリヤ達が体験したニッバーナを速やかに達成しますように!

サードゥ(善哉)!サードゥ!サードゥ

pagetop