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火山を鎮静させるために

洞察瞑想の紹介   スジヴァ

もし人が生気にあふれ、気づきに満ち
考えも言葉も行為も清浄で
もし人が何をするにも注意深く、思慮深く
感覚を制御していたら
人は真理に則った生を得るであろう
そしてもし人が不注意でなかったら
その気づきに満ちた人の名声と富は
着実に増えてゆくだろう

11月6日、1994

洞察瞑想というような深遠な題材を簡単な言葉で表すのは、容易なことではありません。それでも、どこかから始めなくてはなりません。このような瞑想を紹介してきて何年にもなりますが、私はまだ、仏教の知識がない人達向けの紹介書が不足していると思います。瞑想関係の本の多くは、古代インドの用語による極めて専門的なもので、そのような用語を完全に同じ意味の英語に置き換えることは望むべくもありません。そんな訳で私は、もっと簡単で理解しやすいものを書いてみようと思いました。この冊子の中でさえ、「条件づけられた」とか「苦しみ」とかの、「仏教的」な意味で使われる時には特別な説明が必要となる英語を、使わざるを得ませんでした。

ここで私が示したことは、あなたが最初のステップを踏み出そうと決意した時に、どうすればいいかというアイデアを与えてくれるでしょう。リトリート(*隠遁、何日か続けて泊り込みで行われる瞑想キャンプ)に来る人達でさえ、それを正確に理解するためには、何度も最初の指導を繰り返さなければなりません。テクニックと瞑想の捉え方については、瞑想の師に相談するのが最良でしょう。

さあ、何が会得できるか見てみましょう。もしこれを読んだ後に、この洞察瞑想の実践においてあなたが一歩でも多くを踏めるとしたら、私の試みは成功です。

スジヴァ
サンティスカーラマ
コタ・ティンギ、ジョホール
マレーシア

目次

1 火山 
2 心のマジック
3 主要なコントロール
気づきの効用 − 差異の世界
主要なコントロールの獲得
● 歩く瞑想
● 座る瞑想
● 日々の行為
4 洞察と集中
● フォローアップ・アドバイス
5 私達の道は水の道
1章 火山

私が思うに、もしインドの聖者が住んでいる所に火山があったとしたら、彼はその教えの中で、聳え立つ雪を頂いたヒマラヤを使ったように、火山を使ったことでしょう。

最近まで私は、地理雑誌やテレビの画面を除いては、この地球の沸騰した内部の素晴らしい噴流を、目の当たりにする機会がありませんでした。インドネシアへの旅で訪れたクレーターは、最も壮観なものという訳ではありませんでしたが、それでも一生涯を捧げて火山活動に関するこの科学の領域を研究している人達は、人類の安全のためばかりにそうしているのではないかもしれない、と私に思わせるには充分でした。

私達は自分達の周囲の多くのことに、全く無関心で気づかずに生きています。火山の噴火口に直面することで私は、自分達の立っているこの地球が安定しているのはほんの表面だけに過ぎないのだ、ということに突然気づかされ動揺しました。マレーシアの私達が住んでいる所は激しい火山地環帯を調度外れた場所にあり、震動はごく稀にはあっても、地震や火山の爆発などは別世界のことと思われています。火山の裾野に住んでいる人達はもっと危険に気づいていて然るべきですが、そうばかりでもないようです。というのは、人はしばしばダチョウのように振舞うことが好き、つまり危険に目隠しをしているのをより好むからです。警告は出されます、しかしそれでも死傷者は出るのです。豊富な収穫を約束する肥沃な土地のために、人々は自分の家に執着します。地球と血液と感情がすぐに離れ難くなるのです。

火山には色んなタイプがあるとガイドが教えてくれました。活火山、休火山、死火山です。

活火山というのは、まだ噴煙をあげている火口を見ても分かるように活動していて、いつ爆発してもおかしくありません。もっとも、現代科学はある程度までは前もって予告できる装置を持っています。

休火山というのは休止状態にあるものです。というのは、しばらくの間全く活動をしていないのです。それでも条件が再びそろえば、まだ「起きる」ことができます。フィリピンのピナツボ火山は1991年に爆発しましたが、それまでに六百年間眠っていたのです!

消滅するのがもっと確かな場合、かつて活火山だった火口は今は死んでいると見なされます。しかしそれでも、地下で何が起こっているのか分からないうちは、本当に死んでいるのだとは決して言い切れません。

ラヴァと呼ばれる熱く溶解した岩が、物凄いスピードで険しい斜面を滝のように流れ出し、途中にある物すべてを焼き尽くしていく様を想像してみてください。人が死ぬのは実際は火砕流などによるのですが、人を殺したり、耐えられない程の傷を負わせたりするのは、あっという間の出来事です。自然の気持ちは非個人的なものですから、自然が癇癪を起こした時は、「命がけで逃げなくてはなりません」。

ジャヴァは世界で最も火山の被害を受けた地域です。資産その他の損失は言うまでもなく、数千人もの命を奪った最も悲惨だった災害を起こした二つの火山、タンボラとクラカタウはここにあります。

人間もまた同じように見ることができます。− つまり、活火山、休火山、死火山です。

あなたが怒りの発作を起こしている時、欲望に焼き尽くされ、また妄想に溺れている時、あなたは噴火を起こしているのです。自分をも他人をも恐怖に陥れ、あなたは人生で大切なものを失ってしまうかもしれません。命を奪うようなことはないかもしれませんが、実際の火山よりもっと致命的でさえあるかもしれませんし、またそうなり得るのです。広島と長崎の原爆の例はどうでしょうか。日本人自身も第二次世界大戦で、数百万人の中国人を殺しています。人間が自分自身に対して起こす残虐行為のほうが、自然災害よりずっと酷いのです。

ゆえに、もし付け加えるとすれば、三つの噴火があるのです。− 小さいもの、大きいもの、そして壊滅的なものです。

☆ 小噴火は、富の損失や「面子」を潰すなどの小さな損害を引き起こします。

☆ 大噴火は、もっと永続的な損失、体の一部を失うとか、愛する人との永遠の別れとか、自分自身の死などを引き起こします。

☆ 壊滅的な噴火は、大規模な戦争、大虐殺、その他想像もできない災害などを引き起こします。

小噴火はたくさんあっても生き延びられるかもしれませんが、大噴火は一回だけで大勢の人の気を狂わせるのに充分です。このような災難があなたに降りかからないようにというのは(可能性がないにもかかわらずの)希望ですが、悲劇は結局その本領を発揮します。心の奥深くを覗いて見れば、私の言っていることの意味が分かるでしょう。あなたの周囲のあらゆる歩く火山と世界の不安定さを眺めてみれば、あなたは確信するでしょう。貪欲の、憎しみの、迷妄の火が、誰の血の中にも流れているのです。休火山は何世紀も眠り続けることがありますが、これらの汚れは毎日噴出してきます。

この火を静めることができるのは何でしょうか。答えは問題と同じ源泉に見つかります。− 熱い溶解したラヴァの鉱脈がある地中に隠れて、生命の涼しい爽やかな泉もあるのです。それは心そのものの中にあります。− それは気づきの冷却水なのです!

世界最大のストゥーパの上にしばらく休みながら、遠くの火山、メラピがその煙を雲と混ぜ合わせているのが見えます。時に仏陀の山と呼ばれるボロブドゥールは、実際火山の存在に想を得たのかもしれません。

私達の主の荘厳な像が、様々な手の仕草をしながら穏やかに座っているのを眺めながら、これは正真正銘の死火山、ずっと昔に消滅した汚れの火である、という考えが私の脳裏をかすめました。平和の象徴と共にこの一幅の絵のような景色の一部になることは、何と素晴らしいことでしょう!

2章 心のマジック

マジックは大きく二つのタイプに分類できます。白マジックと黒マジックです。ここでは皮膚の色を言っているのではなく、精神の状態を指しています。精神が現実に関しての妄想で覆われている時、それを暗いとか黒いとか呼びます。たとえば、怒っている時は相手の良いところを忘れてしまいます。それは渇望にとり憑かれている時には手に入れたいと思っているものの欠点が見えないようなものです。このような状態は、お分かりのように、最終的に良い結果を生まないのです。

これに反して、純粋で澄み切った精神状態は明るいとか白いとか表現されます。あなたが気づきに満ちて落ち着いている時、その新鮮さや光輝を体験することができます。なぜこのような人々に、幸福が決して離れない影のように付き従っているのかは、理解に難くありません。

心とは実に魔法の箱です。そこからは理解を超えたものが出て来ます。それは、テレビ、コンピューター、トランジスター・ラジオ、その他を一つにまとめたものとたとえることができるでしょう。それらが整然と秩序正しく動いている時にだけ、すべてを楽しむことができますが、コントロールできなくなった時、それは全開の地獄の扉です。

近頃の子供達が何をして遊んでいるか知っているでしょう。− ビデオ・ゲームです。それは、世界グランプリからエイリアンとの戦い、苦難に陥った乙女の救済まで、あらゆる種類の状況の中にあなたを置きます。車両や兇器、誰になりたいかの選択肢さえ与えられるかもしれません。目標は、すべての障害を克服し、すべてのエイリアンの宇宙船を撃ち落とし、できる限りのポイントを獲得することです。しかしもしあなたが、何時間も果てしなくそのすばしっこい指でボタンをいじりまわす、名人の子供達のようでなかったら、負けは決まったようなものです。しかしそれは構わないのです。すべてはゲームなのですし、少し練習すれば上手くなります。3−D ビデオ・ゲームが登場するのにそう長くはかからないでしょう。

人生とはそのようなものです。心が状況を作り出すのです。しかしここで問題なのは、疲れた時にいつでもスイッチを切ることができない、ということです。癌にかかることを素適なゲームだと捉えることはできないでしょう。精神分裂症や神経症にかかることも楽しいことではありません。自殺でさえも問題の解決にはならないのです。心は、と私達は教えられました、もっと酷い悪夢を生み出すのです。ではどうして、とあなたは訊くかもしれません、このようなことが起こるのでしょうか。

心は勢力の複合体です。あるいは「エネルギー」という呼び方を好む人もいるかもしれません。静かに座って自分の思考を見てみれば、それが活動しているのに気づくでしょう。それは絶え間なく現実の、あるいは架空の新しい状況を作り出そうとし、またその状況に反応しています。多くの人がその機械をよく見ようとしないのは残念なことです。そのために、すべての問題、問題、問題があるのです!私達の心の中に、あらゆる力と答えと喜びの泉があるのです。 すべてが複雑に込み入ってしまうことはあり得るのですが、コントロールの主要なポイントについて役に立つ秘訣を知れば、この魔法の箱をあなたのために役立てることができるのです。

3章 主要なコントロール

心の主要なコントロール機能は気づきです。あなたが穏やかで落ち着いていた瞬間を覚えているでしょうか。その瞬間は気づきもまた明るく澄み切っています。その正反対が、あなたがパニックに陥っていたり全く混乱したりしていた瞬間です。ですからあなたはできる限りどんなことも、車の運転であれ、食事の支度であれ、試験に答えることであれ、気づきを持ってすることができます。けれどもこれは信仰や集中などのように認識されることがなく、よってそれ程強調されていません。もし私達が気づきを本当に強く継続的で、それと分かるようになるまで発達させたとしたら、人生は傍らをうっとりと、でなければ少なくともスムーズに流れていきます。

気づきの効用 − 差異の世界

時に人は、正気と狂気は紙一重だと言います。たとえば、酷く興奮した天才は狂人と大した違いがありません。それでフランケンシュタインが発明され、ターミネーターが発明されたのです。いずれにせよ爆弾はどんな種類でも良くありません。しかしその正気と狂気を分かつラインがどんなに小さくても、ラインはラインです。そしていくらラインが太くても、あなたが混乱していたらそのラインを見落としてしまうでしょう。

気づきというのは実際、ラインのようなものです。あなたが気づいていない時、激怒している時には、あなたは狂人と全く変わりがありません。それはただ程度の違いだけです。あなたの気づきがゼロの状態が長期間続いた時、あなたは気違いだと断定することができるのです。ですから、もし気が狂いたくないならば、あなたの親愛なる気づきにしっかりとしがみつきましょう。あちら側、つまり底は生き地獄なのですから。正気とは実に細いラインです。いわゆる人間を破壊するのには本当にそんなにかからないのです。二・三日、あるいは二・三週間、人を誰とも接触させないで閉じ込めておけば、ほらご覧なさい、精神病院行きのできあがりです。

あなたが瞑想者なら、狂気と戦う機会があり、他の人よりもより正気になることさえあるでしょう。が、彼等はそれでもあなたが狂っていると言います。なぜなら、あなたは他の人達と違っているからです。リトリートの後でいつものように興奮しやすくも、苛立ちやすくもなかったために、友達から気が違ったと思われた例を私は知っています。友人達は彼を激怒させることができて初めて満足しました。もし彼等自身が規則的に瞑想をするのであったら、こんなふうになったと想像できるでしょうか。その場合、誰の気が違っているのでしょうか。もしあなたが本当に気づいていたら、あなたは自分自身疑うことなく、自分の精神は明晰で理性的に考えているということを知るでしょう。混乱しているのは彼等なのです。

もし、気づきによって精神が貪欲、怒り、妄想といった汚れから免れているというのなら、それはまた純粋な幸福と苦しみの間にラインを引くことを意味するでしょう。怒りや妄想がなぜ苦しみなのかは分かりますが、貪欲、特にそれが喜びへの貪欲さだった場合は、なぜなのか理解できません。その理由は、喜びには精神の本当の状態を包み隠してしまう傾向があるからです。喜びを取り去ったら何が残るでしょうか。そこには真に落ち着きのない渇望と強い執着があるのです。お腹が空いている人のようなものです。ですから本当の幸福を求めるのなら、純粋さと気づきによって生まれる心の平安を探しましょう。

それは真実満足できる種類の幸福であり、高尚な目的によって強化されています。感覚による楽しみでこれと同等なものはありません。その上、すぐ近くにあって自由に手に入れることができ(そうしようとする限り)、それを得るためにどんな代償を払う必要もありません。

気づきはまた、生か死かという場合の決定要素ともなり得ます。不注意な間違いや見過ごしの多くが人を死に至らしめるのです。それは単に階段や梯子から滑ったとか、路上で滑ったということかもしれません。交通事故では毎日人が死んでいます。また電気ショックとか、不注意に物を食べていて喉を詰まらせることさえあります。それはあなたの命を奪うだけではなく、他人の命も奪われるのです。その後はどうなるのでしょうか。死の瞬間に気づいていられたら、それは幸せな再生を意味します。そうでなければ地獄を意味しています。仏教徒はカルマの法則(応報の法則)を信じています。気づきは善きカルマであり、汚れは不健全なカルマです。一生涯を通じてなされたこれらすべてが、それまでに蓄積されたものに加わって、それによって次に何が起こるか、天国か地獄か、が決まるのです。

最後に、これは重要なことですが、気づきはニッバーナとサンサーラ(誕生と死、また苦しみのサイクル)を区別する要素でもあります。聖八正道(悟りへと至る八つの修行の道)の中では、徳、集中、理解などは、気づきを深めることに依存しています。気づきがなければ倫理的な基本ができません。最終的に洞察が極まった時、それは最高に強力で鋭い気づきになり、無知の厚いベールを貫いて永遠の至福、すなわちニッバーナを実現するのです。ですからそれまで、誕生と死、苦しみのサイクルであるサンサーラを脱け出すために、できる限りの気づきを持つように心がけましょう。

主要なコントロールの獲得

さて、今やあなたは、気づきを持つことがどんなに重要であるか理解したでしょうから(と私は期待します)、すべてに違いをもたらす気づきというものを育成するにはどうしたらいいのか、ということに多分興味を持っているでしょう。基本的にはこの気づきをそれが習慣的に、継続的になるまで発達させて、それからもっと特殊な目的、たとえば知識や能力を獲得することに適用するのです。

まず第一に、絶対に役に立つであろう提案をさせてください。これは安全に試せる簡単なエクササイズです。それは三つの項目から成っています。

■ 歩く瞑想 ■

歩くということにどれだけ多くのことが含まれているか、想像することができるでしょうか。オフィスに歩いて行く、エクササイズのために歩く、観光で歩く、ディナーのテーブルへ、また疲れを癒すため、そして他にもたくさんの素晴らしいこと、もちろん言うに足らないようなことのためにも、あなたは歩いているのです。

けれども朝日を浴びて人気のない海岸をのんびり歩くのと、歯医者の椅子へ向かって歩くのとでは、感じることも考えることも全く違います。それはみんな心の状態に関わっているのです。そして、いいですか、その心の状態が、あなたがどこへ到着するのか、どういうふうに行くかを決定するのです。もし気づくことなく歩いていたら、あなたが辿り着くのは病院かお墓ということになるかもしれません。もちろん最近は多くの人達が、歩くことを減らして車に乗るようになりました。現代テクノロジーが提供するこれほどのスピードでは、安全を確保するためにより以上の気づきが必要になるかもしれません。では、歩く瞑想を始めるためにいくつか秘訣を教えましょう。

□ 気づきながら歩くことを習うには、充分な距離、少なくとも十メートルはある静かな場所を探さなくてはなりません。なるべくなら、真っ直ぐで障害物がなく平らな所、誰かがあなたのしていることを見つめたりしないような所がいいでしょう。もしなければ、十歩位までの距離のある所でも大丈夫です。

□ まず、自分の立っている姿勢をはっきりと意識するように、心を持っていきます。これは視覚化ではありません。自分の体をあるがまま、緊張や堅さ、また少し揺らいでいるかもしれません、に感じることです。真っ直ぐな姿勢でリラックスしていることを確かめてください。両手を握るか組むかして、平静を保つようにします。目を閉じて、心を自由に、穏やかに、リラックスして幸せな気分にします。問題とか考え事をみんな忘れられるように努力しましょう。それらには、いつもしがみついているだけの価値はありません。心に休憩をあげましょう。ただ、今この瞬間にいて、気づいていましょう。

□ 静かで穏やかになってきたら歩き始めます。その時注意は動いている足の下の方、 ふくらはぎより下に保ちます。好きなように(目は開けて)、自分が最も居心地が良く、リラックスできる速さで歩きます。心を足元に保つために、心の中で右、左とか歩く、歩くとか、どちらでも好きなほうを言ってみてもいいでしょう。そして、忘れないでください、考えてはいけません。心はただこの瞬間に保ちます。

□ 曲がる時は、その曲がるという行為に気づいていましょう。

□ 注意が考え事のほうへ走ったらいつも、心の中で考えている、考えていると気に留めることで意識を思い出し、そしてまた歩行に注意を戻します。もし緊張や退屈が忍び込んできたら、再び歩くのを止めて自分のしていることに意識を引き戻します。立っている間、緊張、退屈を気づきをもって見つめて、それからまた歩き始めます。

□ 心が着いていけるような一定のリズムで歩くことをお奨めします。一度リズムに乗れば、それは流れ始めます。そうしたらそのリズムをしばらく保ちましょう。

□ あなたがもっと穏やかになり、または少し疲れたと感じたら、歩くペースを落とし、同時に心も体もよりリラックスさせます。このように精神集中ができるようになると、人は一時間以上も歩いて、まるで一分しか経っていないと感じるようになるでしょう。体の重さを感じられず、雲の上を歩いているような感じがするのです。最後にはこの上なく幸せな気分になってきます!

□ 一つ付け加えることがあります。本当にリラックスしてきたら、足のステップと一緒に流れている心に敏感に注意を払います。そこに流れている感覚を感じとりましょう。− 緊張、押したり引いたりする力、軽さや重さ、そして最後は、足の裏が地面に着く感覚です。

□ 初心者がより鋭敏にこれらを知覚するために、師達は各々のステップを2つから6つに分けて行う方法を考案しました。

□ 集中リトリートや公開の瞑想会では、一時間の歩く瞑想を3つのパートに分けて行うのが標準です。− 初めの二十分は1段階の歩行、次の二十分は2段階の歩行、残りの二十分(全部で一時間になります)が3段階の歩行です。

□ この方法の基本原理は、心をもっと集中した気づきの状態へと導くことです。この気づきは、だんだんゆっくり歩くこと、歩行をより詳細に観察することによって生まれてきます。

□ 1から6段階までの様々なステップは次の通りです。

  1.  右/左
  2. (足を)持ち上げる、踏む
  3.  持ち上げる、前に出す、踏む
  4. (踵を)上げる、持ち上げる、前に出す、踏む
  5.  上げる、持ち上げる、前に出す、下げる、踏む
  6. 上げる、持ち上げる、前に出す、下げる、踏み込む、踏みしめる

(歩行の様々な段階は図表A参照)

□ それぞれの歩行の段階で、よく観察してみると、歩行に伴う感覚なり勢いなりに気づくことができるでしょう。実際にはそれらを、緊張の流れ、押し出す勢い、踏みつける時に堅さが広がっていくこと、などとして感じるでしょう。

□ この気づきのプロセスを完成するために、歩行を始める前に生じる意向、止めようとする意向、曲がろうとする意向にも注意を払いましょう。

□ これができるとあなたは自分自身をすっかり忘れ、そこにあるのは気づきのプロセスとその対象だけであるような瞬間に、実際に到達します。その時あなたは内なる旅、私達は本当には誰であり何であるのかという本質、を了解する行程を始めたということなのです。その時、無知のために生じ苦しみの根源であった、実在との間のあらゆる葛藤が終焉するのです。

図表A : 歩行の様々な段階
段階1 /  右/左
段階2 /  持ち上げる、踏む
段階3 /  持ち上げる、前に出す、踏む
段階4 /  上げる、持ち上げる、前に出す、踏む
段階5 /  上げる、持ち上げる、前に出す、下げる、踏む
段階6 /  上げる、持ち上げる、前に出す、下げる、踏み込む、踏みしめる
 は新しく気づかなくてはならない段階を示します

■ 座る瞑想 ■

歩く瞑想で使われたのと同じ原理が、基本的な対象を変えることで、座る瞑想に適用できます。それはどんな原理でしょうか。

気づきに満ちた観察の3つのステップの原理です。

  1.  気づいていること
  2.  観察の対象に気づきをもって従う、あるいは参加する
  3.  考えや概念なしに対象の本質を観察する

この本質とはここでは、私達が観察している対象を作り上げている感覚のプロセスを指しています。

歩いている時は、歩行に気づきをもって従っていき、歩行を作り上げている感覚のプロセスを観察しています。座る瞑想では、呼吸する時の腹部の感覚を使います。しかし、鼻先での呼吸の感覚を使う人達もいます。

□ 普通、瞑想する人は、背筋を伸ばし目を閉じて、足を組んで座ります。膝の固い人は椅子に座ってもいいでしょう。後ろにもたれかかるのは止めましょう。これは気づきを保つのにあまり効果的ではありません。もし完全にリラックスして眠りにつきたいならとても効果がありますが、その場合には横たわったほうがいいでしょう。

(様々な座る姿勢については図表B参照)

 図表B : 様々な座る姿勢
A:  足を組んで座る・・・・・ (前から見たところ)
1.両足とも腿の上にきます
2.片足は別の足のふくらはぎの上に、もう片方はその下にはさみます
3.両足とも平らに床に置き、片方を一方の前に置きます
B:  横座り・・・・・ (前から見たところ)
(横から見たところ)

□ 呼吸を普通にして、そうしながら、腹部が上がったり下がったりする動きの感覚に、気づきの注意力を向けましょう。

□ 心の中で上がる、下がると動きに合わせて言いましょう。

□ 初心者は動きの感覚を見失わないようにするために、その気づきの対象に馴染むまで、掌を腹部に軽く当てておくといいでしょう。

□ 心が考え、音、痒みなどという他の対象にさ迷い始めたら、それに気づいた時点で注意力を呼び戻し、心の中で考えている、聞いている、などと認めた後、最初の対象に戻りましょう。

□ この実践を試みていると、あなたは心がどんなに御しにくく、つかみどころのないものであるかに気づくでしょう。その通りですが、少なくともあなたは自分自身をより良く知り始め、それについて何かしようとしているのです!

□ 練習を積んでいくと、心がさ迷うことは少なくなり、上がったり下がったりする動きに留まるようになってきます。そうしたら次のステップである、詳細な観察へと進むことができます。最初は上がったり下がったりの動きしか認めることができませんが、努力すればより以上を気づくことができるようになります。動きはその時々で大きく変化します。長いこともあれば、短いこともあり、速かったり、遅かったり、スムーズだったり、ぎくしゃくしていたり、と様々です。一つの上がる動きの中にも、色々な感覚がたくさん生じては消えていくでしょう。これもまた最後には、気づきのプロセスとその対象だけが残ることになるでしょう。

□ 最終的に、実践を止めさせるために痛みが起こってきます。もし小さな痛みであれば無視しましょう。が、それがあくまでも続きあなたの注意をつかんで離さないのであれば、痛みそのものを観察の対象としなくてはなりません。

□ それは、気づき(とこの場合は忍耐も)を鍛える手段として痛みを使う、ということです。観察の三つのポイントの原理はここにも当てはまります。まず、気づきをもって痛みを見つめなければなりません。そして、痛みによって苛立つことなしに、それをしばらくの間見つめなくてはなりません。それができたら、あなたは痛みの本質の中を、それが硬いのか、熱いのか、痺れているのか、観察できるようになります。引っ張るような痛み、捩るようなもの、切るようなもの、かもしれません。想像以上に種類があって、たいへん興味深いでしょう。その後、痛みのプロセスの発見へと進むことができます。− どのように生じるか、変化するか、終わるか、です。痛みの観察を通してあなた自身の本質をより深く理解することが可能です。痛みはあなたという個人を構成しているものの一部なのです。痛みに耐え切れなくなったら、立ち上がる時間です。

(フロー・チャートの図表C参照)

 図表C : 対象の優先性のついてのフロー・チャート

組織的な気づきにおける最優先と副次的な対象の変遷(座る瞑想)
2番目の対象
聞くこと/音
2番目の対象
考える/汚れ
1番目の対象
上がる/下がる
2番目の対象
座る/触れる
2番目の対象
 痛み

上がる/下がる
明瞭でなくなる、あるいは時折しか明瞭でない
2番目の対象
聞くこと/音
2番目の対象
考える/汚れ
1番目の対象
 座る/触れる
2番目の対象
上がる/下がる
2番目の対象
痛み


2番目の対象
聞くこと/音
2番目の対象
考える/汚れ
1番目の対象
 痛み
2番目の対象
上がる/下がる
2番目の対象
座る/触れる

■ 日々の行為 ■

最初に学ぶべきことのうちの一つは、気づきそのものについてです。私達は気づきについて読んだり聞いたりしてきました。さあ、今直接の体験を通してそれを知りましょう。それはただ何かについて知るというだけのことではありません。明晰で、安定した心によって知るということなのです。そうすれば間違うことはありません。その上、執着、怒り、惑い、怠惰、落ち着きのなさ、疑い、嫉妬、などもあり得ません。一度気づきを明らかに知れば、それを呼び起こすのは難しくはありません。それはただ意志の問題です。いつも気づいていることは、なんと素晴らしいことでしょう!でもそれができるようになる前に、気づいている状態とそうでない状態を、はっきりと区別することができるようにならなくてはいけません。その後はあなた次第、練習、練習、練習です。

ある意味で、気づきを維持することは旅をすることに比較できます。あなたはでこぼこ道を自転車に乗って、交通の激しい交差点にさしかかります。あなたは道に注意して、自転車のバランスを取り、ペダルを踏み続けなくてはなりません。上手く乗れるようになるには、相当の試みと失敗をしなくてはなりません。同様に人生においても瞑想においても、遭遇する様々な状況と対象に対処するという経験が必要なのです。そしてあるものが特にやって来る場合、それを乗り越えることを学ぶまでは、長いこと身動きがとれなくなるのです。痛みはその一例です。それは人生の不可避な側面でもあるのです。

一度この気づきとそれを維持することが一体どういうことなのか、ということを知れば、自分自身の行為のすべてにできる限り気づき、できる限りの機会に現実的に対処することができるようになるでしょう。眠りから覚めた瞬間から始まって、目が開くところを気づきをもって見ることでしょう。同じように、起きる、顔を洗う、食べる、飲む、など、そして最後に一日が終わって眠りに着くまで、一日を通して気づきを保ち続けるのです。

たとえば食べている時は、食べることに含まれる行為すべてを一つ一つ、注意深く見守らなくてはなりません。最初に食べようとする意欲、次に食べ物を見ること、手を伸ばすこと、食べ物をすくうこと、口に持ってくること、口を開けること、噛むこと、かじること、呑み込むこと、その他すべての段階です。瞑想リトリートでは、気づきに集中するのを助けるために、行為を可能な限り遅くすることができます。実際、周りのことを全く忘れてしまいます。最後に、座ったり立ったりの瞑想の時のように、単なるプロセスだけが残ります。

しかし家庭や職場では、このように集中したやり方で気づきの練習をすることはできないでしょう。普通は、一般的なレベルでだけ気づくことができるだけでしょう。暇な時に初めて、公式の練習会で、好きなだけ集中して気づきの実践を再開できるのです。

4章       洞察と集中

次に必要なのは、集中と気づきの違いを認識することです。それはあなたが向かっている方向を決定します。− 静謐への道か洞察の発展の道か、です。

ほとんどの瞑想方法が集中を強調しています。それは心を一点、または対象に焦点を合わせるようにして、そうすることで集中力を達成します。結果はたいへん平安な状態であり、極端な場合、超能力が発現してきます。これが人々が達成させたいと望んでいるものではないでしょうか。大部分の人がこの方向に向かうのも不思議ではありません!

仏教徒にとってその道は、しばらくの間人をかなり昂揚させますが、それは苦しみのすべてから私達を解放してくれるものではありません。苦境に対する答えは洞察です。つまり、世界の本質をあるがままに、どんな概念もなしに認識することです。簡単な言葉で言えば、この世を形作っている一切の精神的・物質的プロセスは、本当のところ無常であり、不満足なものであり、無我なのです。このように見ることによって、人はそれらに背を向けて、無条件な状態、絶対の真理の永続する平安、すなわちニッバーナに避難するのです。条件づけられた存在の不満足な状態を認識することがなければ、人はそれにたいへん執着し、よって離脱は不可能なのです。

この洞察を発達させるためには、気づきが主要な事柄として強調されて、集中はもう一つの必要な要素として二番目の地位に降ろされています。

気づきと集中を区別するために、それらの特徴を書き出してみましょう。

□ 集中は対象に踏みとどまり、心を対象に定めます。何かをしっかりと握って離さないようなものです。テレビのスクリーンに見入って目が離せないようなものでもあります。

□ 気づきは、しかし、テレビのスクリーンで何が起きているのか注意深く観察するようなものです。 他の言葉で言えば、集中は心をその対象に釘付けにするものであり、一方、その対象を注意深く詳細によく見るのは気づきなのです。そのものが本当にはどんなものであるのか発見した時、あなたは洞察による知恵を発達させたということになります。

ここから結論できるのは、集中を得るのに気づきは必要ではないが、気づきがある時そこにはある程度集中がある、ということです。

通常は静謐瞑想の実践中、集中が主要な目的なのですが、それを引き出すためには気づきもなくてはなりません。しかしその気づきは、洞察瞑想で達成するような詳細に及ぶ気づきではありません。その上、対象が違います。つまり、静謐瞑想の実践を含めた概念的なものです。

もし、自分が本当には誰で、何であるのかを発見するために実際に内側を見る、というのが目的ならば、注意深い観察が主要な要素であることを、心に留めておかなくてはなりません。そうすると、人は、自分の主題を精密に詳細に観察している科学者のようです。一度充分な観察をすれば、すべての細部を含んだ主題の全貌を得ることができるのです。その時、気づきが洞察に変容するのです。ですから洞察瞑想では、腹部の上がり/下がり、座る/触れる、痛み、考える、右足/左足などといった対象を、集中した気づきによって観察し、やがてこれらすべて(観察している心も含めて)は単に、速やかに生じては消え去るプロセスに過ぎない、ということを発見するのです。瞑想者はそして、これらのプロセスはすべて個人のコントロールを超えて変わり続ける(永続しない)ものであり、それゆえ満足できるものではない、ということを理解するのです。洞察瞑想においてこれはまた、偽りの自己への執着を捨てることを意味し、よって本源への回帰が起こるのです。

    「私」というものの放棄 − それが真の最高の至福である。      〜 ウッダーナ

フォローアップ・アドバイス

私のお気に入りの世界へようこそ。誰もいないこの世界、精神と物質のプロセスがあるばかり。これが私が最も意義深いと思うことです。人生の本当の意味があるのはここです!これらのことに本当に気づいたら、執着、怒り、幻惑や、その他あらゆる否定的な性質の存在する余地はありません。これらのことに気づいたら、そういったものは単にここには似合わなくなるのです。あなたがそこにいます、− 平安と人生の目的を持って。それは、最後の内なる旅を発見すること、絶対なるものに安息することです。

残念なことにこの冊子の範囲では、洞察瞑想とその基本的な実践とは何か、について紹介することしかできません。これ以上に多くの段階が確かにありますから、瞑想の経験があってあなたに適したアドバイスをできる人達に接するのが一番良いでしょう。そのために、マレーシアの色々なヴィパッサナー(洞察瞑想)センターの照会を付記に付けました。もちろん、時折の、または集中リトリートで、資格のある指導者の下でより完全なコースに参加すればもっと良いでしょう。

この冊子に書かれている基本の知識だけでも瞑想をしようという勇敢な人達には、一つ二つ言うことがあります。 まず、これら最小限のインストラクションは、深刻な心理的問題を抱えていない人達にのみ適したものです。もし精神異常のための投薬や治療を受けている場合、この冊子では不充分だということを強調しておきます。資格者の師にあたってください。

次に、集中を達成すると様々な体験に遭遇するかもしれません。それは喜び、ヴィジョン、声、恐怖でさえあるかもしれません。一番簡単な方法は、気づきをもってそれらを見ることです。するとそれらは結局一分もしないうちに、退いて消えてしまいます。もし消えなくても、執着したりパニックに陥ったりしないように。もっと酷くなります。ただ目を開けて立ち上がりましょう。また、座って瞑想していて三十分程経ち、心に落ち着きがなくなってきた時もこのようにします。これは、あなたの心が山のような問題や、未解決の事柄で悩んでいる時に起こります。座り続けず、代わりに速足で歩きましょう。大切なのは気づいているということです。もし気づきが増さずに状態が悪化するとしたら、何かが間違っているのです。

最後に、これも重要なことですが、洞察(ヴィパッサナー)瞑想の集中コースやリトリートに参加する機会を逃さないことです。冊子の最後に付いている連絡先で尋ねてみてください。十日間のリトリートでの実践で得た進歩や理解は、独りで毎日一年間瞑想して得たものより、ずっと良いことがあるのです。

5章 私達の道は水の道

水は私達誰もが親しんでいる元素です。特に暑い気候に住んでいる私達にとって、水は触れるだけで興奮をもたらします。それが自然の純粋な形で現れた時は、さらに刺激的です。この元素はそこに水が「流れて」いる、自然の中の普遍的なプロセスにたいへん似ているのです。自然の中では、それは未来から現在へ、そして過去へと流れていきます。それぞれの出来事は波のようなもので、これらの波が強いこともあります。私達がその波に沈んでしまうか、泳ぐことができるかは、たいへん多くのことに関係しています。快楽に夢中になっていたり酔ったりしている人は、洪水にさらわれた人と言うことができます。最初はなんという幸福だろうと思うかもしれませんが、遠望することのできる賢い人は、反対のことを思うでしょう。

海上に居続けるためには、気づきを持つことが必要です。それによって頭を水から出しておくことができ、そしてエネルギーをもって安全な浜辺に着くことができるのです。気づきが充分発達したら、私達はボートに乗って波を乗り越えながらニッバーナ、すなわち安全な島へと向かっているようなものです。

洞察瞑想はそれ自体がプロセスのプロセスのようなものです。最初、強力で継続的な気づきによって、私達は自分を波に浮かせようとします。その後、瞑想は発見の旅になります。私達が出会う経験はすべて綿密に調査されるのです。心というのは常に拡大力を増していく顕微鏡のようなものです。私達は、あまりに長きにわたって誤解されてきた存在の秘密を発見してゆくのです。それぞれの認識に伴って、私達はだんだん波が砕け止むところに近づいていきます。− それが絶対の真実であり、あらゆる苦しみの完っき終焉なのです。これが人がそのために生きる高尚な目的なのではないでしょうか。このような素晴らしい知識を延期すべきではありません。さあ、気づきの船に飛び乗りましょう!

●マレーシアの洞察瞑想センター●

マレーシア仏教瞑想センター: 355 ジャラン・メスジッド・ネゲリ
11600 プラウ・ピナン
Tel/Fax:04-2822534
Email:mbmc@tm.net.my
仏教ハーミテッジ・ルナス: ロト297、カンプン・セベラン・スンガイ
09600 ルナス、ケダー
Tel:04-4844027
*タイピン洞察瞑想協会: 96 ロロング4、タマン・ベルサトゥ
カンプン・ボヤン、34000 タイピン、ペラク
Tel:05-8052977
Email:agganani@tm.net.my
*仏教ウィズダム・センター: 5 ジャラン 16/3
46350 ペタリン・ジャヤ、セランゴール
Tel:03-79568019
Email:bwc@quantrum.com.my
セランゴール・ヴィパッサナー・ブッディスト・メディテーション・ソサエティー
29-B ジャラン 17/45
46400 ペタリン・ジャヤ、セランゴール
Tel/Fax:03-79550596
Email:wwongpete@hotmail.com
*ブッダサッサーナヌッガハ・ソサエティー
752-F ジャラン・ペラク
タマン・メガー、ブキット・ブルアン
75450 メラカ、メラカ
Tel:06-2325346
Email:sassana@pd.jaring.my
スバン・ジャヤ・ブッディスト・アソシエーション
ロト PT 12593、SS13
ジャラン・ケワジパン
47500 スバン・ジャヤ、セランゴール
Tel:03-7348181
Fax:03-7315262
Email:sjba@po.jaring.my
コタ・ティンギ仏教協会/サンティスカーラマ*
c/o 3 ジャラン・バヤン 3、タマン・スリ・ララーン
81900 コタ・ティンギ、ジョホール
Tel:07-8838569
Fax:07-8836857
Email:ktbs00@hotmail.com
メッタ・ロッジ・プサット・ブッディスト・ジョホール*
26 ジャラン・レンガス、タマン・メロディース
80250 ジョホール・バハル、ジョホール
Tel/Fax:07-3325500
パートゥブハン・メディタシ・バトゥ・パハット*
15-A ジャラン・シアンタン、タマン・パーダナ
83000 バトゥ・パハット、ジョホール
Tel:07-4326054
Email:clanng@hotmail.com
チッタスカー・メディテーション・センター
76-A ケブダヤーン 18
タマン・ユニヴァーシティ
81300 スクダイ、ジョホール
Tel:07-5987221 H/p:012-7713098
ブッダ・ダンマ・センター: 82 2階、ジャラン・ペンディン
93450 クチン、サラワク
Tel/Fax:082-333232
ミスター・タン・ジン・コク: 247 セティア・ラジェ・ロード
ゴー・ミー・ロケ・ビルディング
98000 ミリ、サラワク
Tel:085-416611
サバー・ヴィパッサナー・メディテーション・センター
1階、ロト 30-32
キアン・ヤプ・インダストリアル・エステート
ジャラン・トゥアランより5.5マイル
PO Box 10298
88803 コタ・キナバル、サバー
Tel:088-427589
* 手紙や電話はできれば週末にお願いします。

ダンマの贈り物

ブッディスト・ウィズダム・センターは、出版物を通してのダンマの伝播に、 あなたの参加を招待しています。

寄付は、セランゴール、ブッディスト・ウィズダム・センター宛に、 小切手(線引き)、為替、郵便為替で支払うことができます。

スジヴァ長老は仏教テーラワーダ派の有名な僧で、最初の僧院生活の何年かを、幾人かの師、知られているのはサヤーダウ U.パンディタ、の下で瞑想を実践しました。長老は、数え切れないほどのヴィパッサナー・リトリートを、1982年よりマレーシア、ジョホールのコタ・ティンギにあるサンティスカーラマ庵にて指導し、1996年からは海外で、メディテーション・リトリートとワークショップを指導しています。