宗派を超えた・やさしいPC法話
ボタン 僧侶の派遣は明確なお布施の「はちす会」

五月に入ると暖かさが勢いを増してきます。

それまでは寒い冬の余韻を台地が残し、上空からは暖かい日差しが注がれるも土壌はまだまだ冷えたままでした。

この時期は旧暦では梅雨の季節ですが、現代ではちょうど田植えの時期になり早苗月(さなえつき)ともいいます。

この季節になると風を伝い緑の香りがどこからともなく漂ってきます。冬に凍った台地から徐々に緑が芽吹き、虫や動物たちが活動し始め、自然の中に新しい命の胎動を感じられます。

そんな生命の活動を私たち人間も少なからず実感し不思議と活力のようなものが湧き起って来るのではないでしょうか。

仏教では生命の起源などについては深く触れていません、今ある私たちの命に対しどこからどのように生まれたかは関係ないからです。

この地球上に数えきれないほどある命の内で、そのごく一部にすぎない私たち人間に生を受けたこと。

頂いた命に感謝して、私たちは「生きている」のではなく「生かされている」ことに気付かなければなりません。

私たちは心に「自我」や「意識」を持っています。そこに私たちを苦しませたり、楽しませたり、不安や安心をもたらす煩悩が生じます。

喉が渇けば水を、お腹が空けば食べ物を、体が疲れると睡眠を、煩悩があるからこそ生きていける私たちです。

その煩悩を満たすためには、数えきれないたくさんの命を私たちは頂いています。

だからこそ私たちはたくさんの命によって「生かされて」います。

頂いた命、生かされている私たち、捨てることのできない煩悩。

合掌して「南無阿弥陀仏」とお念仏申すとき、感謝の心を忘れてはいけません。

感謝するのは命を頂いたものにだけではありません。

仏様にもそのお念仏を通して感謝します。

何故、仏様に感謝するのか。

善導大師の『般舟讃』には次のようにあります。

仏身は円満にして背相無し、十方より来る人皆対面す

仏様には背はなく必ず私たち一人ひとりに向かってくださっています。それは私たちを誰一人溢さず見捨てず必ず救うと約束されているからです。

他の命を奪わなければ生きていけない私たちに救いの手をさしのべ、「必ず救うぞ」と声をかけてくださいます。

その声こそが私たちの「心」「声」を伝って出る「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

初夏の風に乗せられ感じられる草木の香りも、実態はありません。

香りを連れてくるのは風ですが、風は何か、風は空気の流れです。木々が風に吹かれ揺らめけば音が鳴ります、しかし風その物を観て聴いているわけではありません。

仏様の私たちを救い取ろうとするお声も、お姿も、お光も見ることはできませんが、唯一お念仏によりそのお心を頂くことができます。

日々の生活の中で忘れてしまいがちな、「感謝」という言葉を今一度大切にしたいものです。

合掌

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