私たちの祈りの業

チュウシュン

仏教はお悟りを目指して修業を行います。

修業というと厳しい、苦しいという印象があるかもしれませんが、全ての修行者が苦しい修業をしているわけではありません。

お釈迦様でさえ、苦行を行い、悟りを得たわけではないといわれています。では、修業とはどういった事を行えばよいのでしょうか。

浄土教では、「所求(しょぐ)」「所帰(しょき)」「去行(こぎょう)」という考え方があります。

「所求」とは求める所、つまり浄土に往生する事をいうわけです。これは目的になります
「所帰」とは帰する所、すわわち帰依する対象は阿弥陀如来であること
「去行」とはお念仏を称えることで、いつでもどこでも、誰にでもできる修行方法はお念仏であるということです。

しかし実際のところは、この人生わずか数十年の間にお釈迦さまと同じ悟りを得ることは極めて難しいと考えられています。

浄土往生であれば、お念仏のおかげで必ずその願いが叶うのです。

だから浄土往生を目指して(所求)、阿弥陀如来に帰依し(所帰)、お念仏に励みましょう(去行)、というのが浄土教の考え方です。

これらを踏まえた上でお念仏を称えるのが正しいわけですが、「悟りをめざすと言っても、その『悟り』が何なのか、正直よく分からない」 「 極楽浄土は本当にあるのだろうか 」「 現実的ではない 」という声も聞こえてきます。

しかし、それは、我々人間が行ったり、学んだりする事の経験や想像を基準に考えるからなのです。仏の世界は人間の経験や想像を遥かに超えた世界であり、その世界に生き往く事ではじめて悟りという境地を得られるというのです。

人は必ず死を迎える時がきます。現代の科学的な考え方では人は死後に、魂もろとも消滅してしまうでしょう。科学では証明できない事を信じないからです。

けれども、科学を研究している学者さんでさえ仏や神を祈るわけです。それはなぜか...

それは古(いにしえ)からつづけられている祈りでもあり願いでもあるからなのです。

 

太陽を神として祈る古代人がいたとします。頭の中で想像してみてください、太陽光がどれだけ古代の人々の糧になっていったのかを、太陽が命を分けてくださいます。

現代でも同じように祈り願うわけです。祈りの方法に善し悪しはありません、その先には仏や神が存在するのです。

釈尊が説かれた『無量寿経』という経典の中に極楽浄土の様相や阿弥陀仏の願があらわされています。浄土教ではお念仏をお唱えする事が行となっております。けっして難しい修業では要りませんが、続ける事が大切であると言われています。

法然上人(浄土宗の開祖)は、お念仏を行う事で良い心構え、良い行いが出来るようになるとおっしゃっております。

それこそが修業であり、お釈迦様の正しく生きるための教えではないでしょうか

あの世とこの世を繋げるにはお念仏とのご縁を大切にされますように、そして亡き人とも再び出会えるお浄土を信じ願う事です。 信じる事になにも理由はいりません

  

南無阿弥陀仏。 チュウシュン


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