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宗派を超えた・やさしいPC法話

一人居て喜ばば二人と思ふべし

釋断城

「一人居て喜ばば二人と思ふべし」

これは浄土真宗の開山親鸞聖人がご往生(おうじょう)の時に残されたお言葉です。

何年か前流行した「千の風になって」に「お墓の中に眠ってなんかいません」では、どこに居るのでしょうか?以前御主人を亡くされた奥様がお寺に来られこんな事を。「主人が成仏(じょうぶつ)していない様な気がする。毎晩私の夢枕に立ってしょうがない。迷っているのでは」 と。よく聞くお話です。私はその奥様にこう問いかけてみました。「成仏したからこそ夢にまで出てきて下さるとは思いませんか?」 唖然とした顔をされていました。南無阿弥陀仏の世界は死んだら終わりではありません。

そもそも「往生」という言葉は『生まれて往く。生かされて往く』事です。葬儀の時に「生前中」という言葉を聞きますが『生前』って生まれる前では?『存命中』なら解りますけど。生前とは、往生する前という事、往生とは仏の世界へ生まれるという事、淨土真宗でいえば、阿弥陀如来の世界へ生まれ往くという事です。では、往ったら終わりかと言うとそうではありません。阿弥陀如来と同じ悟りを開かせてもらい、阿弥陀如来と共に衆生を救う、つまり今生きているこの私を救わなければならないという仕事があるのです。親鸞聖人は往生する姿「往相(おうそう)」と淨土から(かえ)ってくる姿「還相(かんそう)」の両方があってこそ南無阿弥陀仏の教えであると説かれました。成仏しないから夢枕に立つのではなく、成仏したからこそ私のもとへ還ってきてくれるのです。親鸞聖人は「よるひる常に守るなり」と残されています。私も時々亡き両親や子どもの事を思い出しますが、いつも私の心の中に阿弥陀如来と共に仏となって生き続けてくれます。

だからこそ今日を強く生き抜くことが出来るのです。「一人居て喜ばば二人と思ふべしその一人は親鸞なり」私が生きている限り私の人生を共に歩んで下さる仏こそが阿弥陀如来であり、南無阿弥陀仏の教えであります。

                              合掌  

挿絵