宗派を超えた・やさしいPC法話

「いのちがけ」ということ

釋断城

現代の言葉で「命がけ」と言うと、とても大そうなことのように聞こえます。淨土真宗の親鸞聖人のお言葉の中に各々(おのおの)の十余カ国の境を越えて、身命(しんめい)(かえり)みずして来たしめたもう御(こころざし)とあります。

今から八百年の昔、関東のお同行(どうぎょう)が一カ月の時間をかけ京都の親鸞聖人のもとを訪ねられた。身命を顧みずしてとは、命がけという事なのです。確かに、八百年の昔と言えば、徒歩で、箱根の山を越え、大井の川を渡り、盗賊なども出た事でしょう。それを思えば命がけも当たり前のこと、現代なれば鉄道や飛行機を使えばひとっ飛びなんて思いますが。

先日、飛行機で北海道へ飛びました。その機内でのことです。羽田出発時に「新千歳空港には○時○○分の到着を予定しています」との放送。聞き流せば何ともない事ですが、私は客室乗務員さんに「新千歳に必ず着きますか?」とお伺いしたら、「予定です」とのお答えが。予定とは?裏を返せば着くか着かないかわからないという事。そうなんです。誰も必ず到着しますよと保証する事はできないのです。

条件(仏教ではこれを「(えん)」と言います)が揃ってこそ初めて到着するという結果が得られるのです。

八百年前だから命がけだったのかというと、そうではなく、今が命がけなのです。それは、自分のいのちに保証がない、いつ終わるかわからない命だからこそ、今を生きているのではない、今日私の命があるのは、縁が揃ってこそ、さまざまな、天の恵み地の恵み、さまざまな命の恵みによって「生かされている私の命」なのです。だからこそ毎日が「いのちがけ」なのです。

お母さんのおなかに命を戴いてこの方、何の保証もないままに、今日生きている生かされている命、大切にさせて戴きたいものです。 阿弥陀如来の教えに照らされてこそ、気がつかせて戴く我が命、親鸞聖人は「毎日が命がけですよ」と教えて下さるのですね。

                              合掌  

挿絵