「いのちがけ」ということ
釋断城
現代の言葉で「命がけ」と言うと、とても大そうなことのように聞こえます。淨土真宗の親鸞聖人のお言葉の中に「
今から八百年の昔、関東のお
先日、飛行機で北海道へ飛びました。その機内でのことです。羽田出発時に「新千歳空港には○時○○分の到着を予定しています」との放送。聞き流せば何ともない事ですが、私は客室乗務員さんに「新千歳に必ず着きますか?」とお伺いしたら、「予定です」とのお答えが。予定とは?裏を返せば着くか着かないかわからないという事。そうなんです。誰も必ず到着しますよと保証する事はできないのです。
条件(仏教ではこれを「
八百年前だから命がけだったのかというと、そうではなく、今が命がけなのです。それは、自分のいのちに保証がない、いつ終わるかわからない命だからこそ、今を生きているのではない、今日私の命があるのは、縁が揃ってこそ、さまざまな、天の恵み地の恵み、さまざまな命の恵みによって「生かされている私の命」なのです。だからこそ毎日が「いのちがけ」なのです。
お母さんのおなかに命を戴いてこの方、何の保証もないままに、今日生きている生かされている命、大切にさせて戴きたいものです。 阿弥陀如来の教えに照らされてこそ、気がつかせて戴く我が命、親鸞聖人は「毎日が命がけですよ」と教えて下さるのですね。
合掌
