宗派を超えた・やさしいPC法話

 幸せの条件

ダンマダジャ 

皆さんは何があれば幸福だと思いますか。幸福の定義を少し考えてみましょう。

お金があれば幸せだ、と考えますか。違いますね。お金がなくても幸せな人はたくさん入ます。逆にお金が入ったために不幸になる人もいます。それにお金持ちしか幸せになれないのなら、この世界でお金持ちは少ないのですから、幸せになる人も少ないのです。決してそんなことはありませんね。

健康であれば幸せだ。と考えますか。本当に健康の人など少ししかいません。年をとれば誰でも病気の一つや二つは持っています。病気を持っていては健康になれませんか。決してそんなことはありませんね。

頭がよければ、地位があれば、頭のいい人も、地位のある人も少ないものです。 美しければ幸せだ、と考えますか。美人が故に悩むこともたくさんあります。それに美しい人も少ないのです。

我々は世の中の少ないまれなものを見て、私にもあれがあれば幸せだ。私もこうであれば幸せだ、と考えています。宝くじが当たったら幸せだ、といつも考えるようなものなんです。一般的な幸せの概念と言うものは「ありえないことがあれば幸せだ」というおかしな話なんです。日本にはありあまるほど何でもものが揃っています。それでも心に幸せは見つからないのです。それは、そのありえないものから幸福を作ろうとしているからです。

そして、悪いことに人間は幸福を目指すつもりで、自分を生かしている自然や社会システムにも攻撃をしているのです。それによって得られるのは悩み苦しみ悲しみに満ちた不幸なのです。

雨が降ったから、外出はしたくない。今日は寒いからやりたくない。暑いから嫌だとか、いつも自然を相手に不平不満のオンパレードです。その結果得られるものは、悩み苦しみばかりなのです。また、冷房が効いている部屋に大勢でいれば、寒いから冷房を下げてくれとか、逆に暑いので冷房を効かせてくれとか、大勢いれば意見がわかれます。一体どっちにしたら良いのでしょうか。社会は団体が生活をする場所でもあります。ひとりのわがままは通用しないのです。人間はとてつもなくわがままですから、ありのままには生きられないのです。

そして人は自分のわがままが通らなければ怒りが出てきます。自分の思うようにならなければ、相手を怒りで攻撃をしてきます。また怒りには怒りで応戦します。それが当然のごとく行われています。

なぜそのような生きかたをするのかといえば、人は本質的に『自分のことしか興味がない』「いついかなるときでもどんな条件でも自分こそ優先だ」もっと冷たく言えば「自分さえよければ他人はどうでもよい」という偏った考えが内心にあるからです。

自分がよければいい、という考えは人間の弱みです。それを仏教では自我・我といいます。

この自我性という病気を治すことが幸福になるための絶対的な条件です。ですから、幸福になりたければ、「生命は皆、平等だ、私たちはわがままに生きることはできない」と知ることなのです。そして、すべての生命と調和を保つように努力するのです。そうすれば、幸福がひとりでに自分を包み込んでくれて、幸福とは外にある別のものでなく、自分と一体のものであることに気づくです。人も動物も微生物までもすべての『生きとし、生きるものが、幸せでありますように』といつも願って、私たちの思考行動を変えることなのです。

人や生命を攻撃するのではなく、『皆幸せになって欲しい』と言う慈しみの気持ちをそだてることによって自分を苦しめる、怒りの心が消えて行くのです。

『怒りを怒りで納めることは決してありえません。慈しみで怒りが消えます。これが普遍的な真理です。』ダンマパダ5