宗派を超えた・やさしいPC法話

お経をなぜ読むのか?(1)

中村道広  

「お経をなぜ読むのか?」と問われれば、大角修氏が『すぐわかるお経の心 』の中であげている例がご住職のご回答の中で一番多い例だと思われます。その例を引用しますと、「仏教関係者に聞いたところ、参列者に教えを聞いてもらうためだ」(P5)という内容です。また、私の身近な例でも、G県のあるご住職のお話ですと「亡くなった方にご回向(えこう)するから読むのだ」という説が大半を占めておるのです。

しかし、これでは、僧侶として情けないとしか言いようがありません。なぜならば、お経は亡くなった方にご回向を聞いて戴くというのであれば、古文調で意味が掴みにくいですし、教えをただ聞いてもらうという趣旨のものでは、お経がなんのために役立つのか、意味がよく分からないということになりかねません。つまり、檀家さんと一丸となって僧侶とともに読んでこそ、意味があるものなのです。そのよい証拠をこれから述べてゆきたいと思います。

お経を始める前に「開経偈(かいきょうげ)」をお読み致しますが、後半で「あるべき本当の姿(tattva)を紐解き、体得したい」と終わりになります。すなわち、その体得(理解)したい気持ちを「持続せよ」という暗示に他ならないのです。つまり、如来さまは仏像の中でも最高位の存在であり、仏教の心理を体現された方であるゆえに、その体得(理解)に至るまでは、反省と精進を行い、心の清浄化を行わなければなりません。そうしなければ、独断的で真理なども見えるはずがないからです。また、「懺悔文(ざんげもん)」を読んで、日々の振り返りを行い、判断が正しいかどうかの再確認をすることで、目指すべき如来さまの地位に、近づいて行けるのではないでしょうか。

言い換えると、仏陀は修行によって悟りを開かれたように、日々の修行(精進)なくしては悟りは開けなかったといっても過言ではありません。だからこそ、その精進を忘れないためにも「開経偈」や「懺悔文」を読むのであると言いたいのです。そして、お経を読む意味を解説しながら、お檀家さんと共有し、原点にたって、亡くなった方のために、仏教徒として何ができるかという思いも、伝えていかなければならないと思うのです。そういったことを抜かし、僧侶だけが勝手に読誦(どくじゅ)するようではお経の意味も薄れてしまいます。むしろそうではなく、檀家さんと一丸となって読誦することで、自分のあるべき姿を再認識する場が生まれ、立ち止まることができる場がお経の中に示されている部分になるわけなのです。昔(鎌倉時代)の絵巻物を見ていると、僧侶とともにお経を読む民衆の姿が描かれていることからも言えるのではないでしょうか。その実践風景を見ていると、聖書研究をして、ご家庭を訪れるエホバの証人さんの方々の方が、教えを大事にし、血や肉にして、いまある自分を見つめなおし実践していると言えるのではないでしょうか。そういった事実を見つめなおし、僧侶自身だけでお経を読誦したり、テープをかけ機械任せにする仏教者は、見習わなければならない時期が来ているものと思われてなりません。みさんはどう考えますか。