宗派を超えた・やさしいPC法話

曹洞宗における中陰法要の意義は?

中村道広  

曹洞宗の大半の解説書を見ていると、「現世と来世の中間にある(中略)世界を徒歩で旅します」とか腑に落ちない部分が多く散見できるのです。つまり、49日までは中陰といって、成仏せずに「中間を彷徨っている」という解釈がなされているからです。さらに、「七日おきに生前の行いについての裁判が開かれ」とあり、閻魔さまの最終的な審判が終わるまでは、極楽にも行くことができないとするものが「中陰」という時期なのです。これは、中国の思想が深く関わり、影響し合っていることは事実ですが、道元大和尚さまはそのような説はお取りにならなかったのではないでしょうか。

ちなみに、曹洞宗では、逝去された方がお葬式の時に「血脈」を戴き、お坊さんになる儀式を行います。これは、お坊さんになったという証明書といっても過言ではありません。J・M・Wシルヴァーの『幕末風俗図録』を見ましても、剃髪をしておりますので、お坊さんになったということは資料から見ても言えるわけです。

そういったことがある以上、地獄に落ちるという解釈はあってはならないと考えております。なぜなら、お坊さんになり、仏さまの世界に入るわけですから、曹洞宗は中陰説をとらないというのが私の考えであります。つまり、仏さまの世界には地獄はないからです。中陰説をとらない浄土真宗では、亡くなられた日から、極楽往生(極楽に安座)していることになります。つまり、仏さまの世界(極楽浄土)に旅立たれたので、保坂俊司著『図解仏教入門』にあるように、「追善供養という発想がない」のもそのためであります。そういった理由から、ご遺徳を偲び、恩に感謝をする法会のみを行うのが回忌法要の意義になっているのです。

もっといいますと、建撕大和尚さまによる『訂補建撕記図絵』には、「菩薩戒血脈」を道元大和尚さまが浮かばれない霊に対し、戒を授ける場面が描かれております。その時に、引導をお渡しになり、その霊が往生したのは、「菩薩戒血脈」のお陰といっても過言ではありません。すなわち、仏弟子となる儀式をし、仏さまの世界に入ったことを意味しているわけです。ですから、無事、極楽浄土に参ることができ、霊も救われたわけです。

そういったことを踏まえると、曹洞宗における中陰はないことになりますし、仏教書の解説も見直さなければならない時期が来ているのではないかと思うわけです。そして、中陰中の期間に行う法要は、浄土宗のような遺徳と恩に感謝する部分に重きを置き、法要を道元大和尚さまは行っていたのではないでしょうか。