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  蓮の華のように

圓宗 

蓮の華は泥から離れず、また泥に染まらず、とても美しい華を咲かせます。私たちの心も本来、蓮の華のように何物にも汚されないものであることを悟っていくのが人生の真の目的です。

良寛和尚さんの和歌に、 「散るさくら残るさくらも散るさくら」とございますが、私達も含め生きとし生けるもの、この世のありとあらゆるものは何一つとして不変のものはなく、縁に因って生じ、縁によって滅びる無常なる移ろいゆく定めにあります。

けれども、日頃私達は知ってか知らずかそうした定めを意識せず、寧ろ忘れて、形あるものに執著し、欲心を燃え上がらせ、また、明日の命もわからぬのに、徒らに先々のことを思い患い、保身の為に走り回っていて、いつまでも心安らかに、自己を落ち着かせるすべを知りません。

さて、古来より名僧は全てそうでありますが、仏教の入り口は、無常観であります。人はオギャアと身体一つで、生まれてきます。そして死ぬ時はその身体一つすらも持ってはいけません。そのことに気づいたとき、人は心おののき、虚無感にさいなまれるのですが、その虚無の底から、生き生きとした命を蘇らせ芽吹かせるのが、仏様の教えなのです。そして真の救済は、仏様の教えを聞き、柔和で素直な心に立ち返ることによってしか得られないものなのです。

私達の迷いの心は、無常なるものに永遠を求め、それを我が物とする為に奔走することで幸福を築こうとしていて、この世と自分自身が無常であることを認めてしまうと、幸福になる為の方程式を奪われたような感覚を持ち、強く反発します。しかし、一旦大きな挫折を味わうなどして、この世の無常に直面すると、今度は何をやっても無駄であるかのように思ってしまう無力感と虚無感から廃人のようになってしまうことが多く、これは心の底では未だ誤った幸福の方程式を捨てきれないでいる状態で す。

道元禅師のお言葉に、 「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわする るなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」 とあります。

この世の物が無常であるということから、自己の身も無常であり、心という目に見えないものも無常であって実体のないものであるということを悟るのが、自己をならうということの意味です。そういう実体のないものに執著していた心を捨て去って、忘れてしまう、ということです。この境地に至るには、自分と思い込んでいた小さな我を捨てることが必要ですが、このとき初めて「万法に証せらるる」といわれる我他彼此の苦しみのない、蓮の華のように何物にも汚されない、仏様と完全一体なる平安な世界に常に住することができるのです。  合掌



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