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宗派を超えた・やさしいPC法話

心はいつも寂光の都

慧照 

私たちは、この世に生まれてくる、時や所は、自分自身では選ぶことができません。そして、自然災害からは逃れることはできません。天災は忘れた頃にやってくる、とのことわりを聞きます。私たちの身体は、制約された条件下に支配されているのです。しかし、一方、厳しい環境の中にあっても、目覚めたる者、悟れる者、仏の体験の喜びに包まれている者は、身体を窮していても、心は自由なのです。

それでは、これから、そのようなかたを訪ねることにしましょう。まずは日蓮上人がおられます。

御年(おんとし)、50歳頃は流罪にあって佐渡で暮らしておられました。冬の佐渡は骨まで凍る寒さであったでしょう。飢えにも見舞われたでありましょう。弟子の最蓮房に便りを送っておられます。その言葉の何という美しいことか。

「我らはともに流人(るにん)ではあるが、身心共に喜びに満ちている。仏の教えを論じ、仏に成る教えを、日々味わう法悦(ほうえつ)に満たされている。」
「遠い国の流罪先で、私たちのように喜びを感じ取れるだろうか?我らが住んでいるところで、仏と成ることができる教えは、どのような場所であろうとも、常寂光(じゃっこう)の都(みやこ)にいるようなものだ。この場所から一歩も出向かないで寂光土を往復しているようなものだ。嬉しいと申す他にはない。」

厳しい環境の中にあっても、仏に出会う喜びを妨げることはできないのです。

私たちは仏縁を得て、世俗的な識別を越えた、大いなる佛智を学び、日常の生き方へ実践したいものです。

*---常寂光土とは