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菩薩は実践者、求道者であり、
且つ、覚者である(上)

慧照 

44年前の大学生時代、教職課程を履修して、その都市では名門の公立高校で実習を行ない、教壇に立ちました。哲学科の大学院の先輩が、当校で「倫理社会」の非常勤講師をされていて、「慧照君、僕の代わりにお願いしたい」、と振られて、その授業も併せて担当しました。丁度、テーマは「インド思想」だったと思います。教室には、クラス担任で大学新卒でもあった先生も同席していました。授業が終了して、先生から質問されました。

「慧照さん。菩薩は、自分が悟ることよりも前に、人を救うことを目指すかただと受け取っていましたが、既に悟ったかたなのですか?」

「そうです。覚者です。」

この問答は、その後、ずうっと、私の記憶に残っていました。解説書では、「自己ひとりの悟りを求めて修行するのではなく、人のために利他行を実践することに努める者である」と、あります。菩薩という言葉には、bodhi(菩提つまり覚(かく))を意味するところがあるので標題の通り、覚者です。しかしながら、そうでもないのではないか、と、ずっと自問自答していました。今では、言い切れます。覚者でなければ人々を救うことはできない。悟りの真理によって始めて人々を救済することができるのだ、と、思い至りました。

経典に出てくる菩薩は、比喩として多く登場しています。それとは異なり、歴史上の人のなかにも、菩薩と呼ばれているかたがおります。その一人が龍樹菩薩です。インド名でナーガールジュナ、大乗仏教の「空(くう)」の思想を確立したかたです。その後、龍樹の教えが経典の中で説かれるようになりました。般若経です。そのひとつ、般若心経に出てくる言葉、「空即是色、色即是空」は、「空」の思想のエキスといえます。『ものはそれ自体存在するものでない。また、実体としてではなく条件によってそのものがある。』大乗仏教の覚者たちは、私たちのこの世界を、色と空、合わせた世界だ、と、パッと大観されたのです。

親鸞聖人は、龍樹を大士さまと呼んで崇敬していました。そして、龍樹大士の教えを、親鸞聖人自らの境涯で、「悉能摧破有無見(棒よみで、しつのうざいはうーむーけん)。悉く能く有無の見を摧破せん」。つまり、『有でもない、無でもない、有とみなす・無とみなすことを砕き破ることだ』と、受け止め、著書である正信念仏偈の中で讃歎しています。

そうです。直面する現実の世界の、その向こうには、何物にも囚われない世界が広がっているのだ。その世界に立ってこそ、真に、人々を救うことができるのだ、と、私は受け止めます。

それでは、そのような、大乗の世界に立ち、実践者としての菩薩と呼ぶにふさわしい境涯のかたを、次回(次々回)に紹介したいと思います。