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宗派を超えた・やさしいPC法話

親鴨と小鴨と本願力

蓮岡法修  

京都加茂川の河川敷、早朝歩いていると、普段川の中で泳いでいる鴨が陸に上がって餌を食べているのを見ることができる。

親鴨の後ろを一回り体の小さな子鴨が何匹かついて歩いていて、散歩をしている人たちがすぐ2m横を歩いているのに、うずくまって草やパンをついばんでいる。

無邪気な姿を見て、こっちの方が「大丈夫なのかなあ」と心配になった。

危険が間近にありながらも親が安心している姿に盲目的に従う様子は、どこか危険に鈍感になった現代人に似ていると感じた。

危険とは、犯罪や事故等に出会うことだけでなく真の目的や人生の正しさを忘れ、欲に迷って日々を何気なく生きる無明の闇の危険をここでは意味する。金や地位が優先され、弱者を切り捨てる社会。

その社会という名の親鴨に従ってさえいれば安心だった我ら。いつの間にか危険な状態につれてこられたのも気づかずに、育ってきた川を見ず、羽ばたいていた空を感じず、ただ盲目的に親鴨も後を追うことで安心を求めていたのではないか。

『貪愛眞憎之雲霧 常覆真実信心天: 貪りの霧、憎しみの雲が真実の信心の天空を覆い隠している (正信偈31段)』

鎌倉時代、宗祖親鸞は戦乱や疫病で荒廃し、祟りや呪いにおびえて生きる人々に「早く目を覚ませ、もう阿弥陀様に救われているのだ」と説いた。

執着という親鴨を離れることで初めて子鴨は自分が自然に生かされていることを知る。

川があり、魚が泳ぎ、空気があって空を飛ぶことができ、危険すらも命の尊さを実感するものである。

このような自分を生かし包み込む大宇宙の働きを親鸞は「如来本願力」と説き、その因となる言葉が「南無阿弥陀仏」であると説いた。小鴨もまた我々もそれぞれの取り巻く社会を背景に生き、時々の処世観で一喜一憂している。

だがその社会通念もほんの数十年で瞬く間に変化していく。その中で人間の本当の生き方とは何かと問い、釈迦が悟ったのが「南無阿弥陀仏」であったのだ。