宗派を超えた・やさしいPC法話

煩悩具足の凡夫たれ

麦里 法見

立春が過ぎた日に、奈良を訪れました。東大寺の不空羂索観音に遇うためです。 古えのまほろばの里は、冷たい雨が静かに大地を濡らしていました。

東大寺三月堂(法華堂)の礼堂に、観音像の正面に横一列に敷かれた畳に正座をすると、畳の中に蓄えられていた冷気が脚からからだを伝い這い上がってきます。吐く息が白く変わります。

幾たびこのみ仏に遇っても、このみ仏の眼は力が満ちていて穏やかです。人を射てはい ません。人の心の奥底にある邪念を、煩悩を見定め、肩から下がる羂索で救い取ろうと しているかの如くです。祈りの時の移ろいに合わせて、心を安穏が包んでゆきます。

仏教では、私たちの存在を「煩悩具足の凡夫」と言い表しています。煩悩とは心と体 の悩み、煩いのことです。常に心と体に悩みを持っている存在という言葉です。

すると私たちは、心と体の悩みを取り除き、少しでも楽になりたいと考えます。そこで 卜占祭祀に依存します。

今、持っている悩みを取り除いても、生身で生きている私たちにはまた新しい悩みがつ きまといます。少しでも楽になりたいと思う欲求は止まる時も、所もありません。

仏(めざめた者)の教えは、私たちの煩悩を消し去ったり、起こらないようにする分別 の教えではありません。煩悩をあるがままに受け入れて、人として生まれてきた喜びを、 いま生きていることの大切さを、一切衆生に教えてくれる智慧です。

親鸞聖人は、源信和尚の『往生要集』の言葉を引いて、偈の文に
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
と述べてあります。

煩悩によって道が見えなくとも、如来の慈悲の用きが、常に我ら一切衆生の人々を照ら し、生きる道を示しているとの導きです。

この導きを受け留め、「煩悩具足の凡夫」との自覚に到る時、安らかな気持ちの、穏 やかな訪れを感じることができると思います。

南無阿弥陀仏

真宗大谷派僧侶
仏教随筆家
麦里 法見


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