宗派を超えた・やさしいPC法話

煩悩具足の凡夫たれ
−いのち(中)−

麦里 法見

仏教は、煩悩の根源となる生老病死にはじまりました。

若いころは老いることを嫌悪し、いつまでも若いままでいたいとか、ある年齢以上には なりたくないとか身勝手な想いに取り付かれることがあります。

老いは、肉体の衰えとともに自分の力が及ばない不自由への入り口であり、忌まわしい 死へのプロローグであるとの受け留めです。

肉体を自己管理することにより、死との距離を、死に近づく速度を自分でコントロール できると思い違いをする頃があります。歳を重ねのは自分であり、自らが病の原因をつく ることにより死に近づいているとの意識です。

老いは、避けることのできないこの身の事実であることを納得し、受入れる時、歳は重 ねてみるものだという感慨が沸いてきます。

自分が死に近づいていくのではなく、死が自分に近づいてくる、いかにもがこうとも自 分の力では、死との距離を、死が近づいてくる速度も調節することはできないと感得した 時、「自分が生きている」ではなく、「生かされているいのち」に気づきます。

歳月を経て、初めて感じるいのちの味わいがあります。

親鸞聖人は、正像末和讃でこう詠んでいます。
無明長夜の燈炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ

生老病死をきっかけとした釈尊の教えが、仏の教えとして後の世に伝わり、煩悩だらけ の闇を照らし、道を示してくれています。

 こころ安らかな生き方が、老いも死もその訪れを忌み嫌い、もがく人びとが、手を伸ばすとつかまれるところに船となり、筏となって漂っています。

如来は、常に自分とともにいます。

南無阿弥陀仏


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