今を看る

曹洞宗僧侶
柴田 関山

禅では、時間と空間の間に、距離を認めません。

           

しかし、人はどうしても、「今」に人の考えをさしはさむため、時間と空間の間に距離を認めてしまいます。

         

たとえば、「今」と言いますが、「今」は「い・ま」と言っている間に、過ぎ去ってしまいます。

           

私達は、決っして、「今」を知ることも、つかむこともできません。

           

しかし、逆に、「今」を問うことをやめれば、私達は「い・ま」この瞬間、「今」と一つになっていることは間違いありません。

           

ですから、本来なら、あらためて「今」を問う必要もないわけです。

           

しかし、だからと言って、「今」を問うことをやめてしまっては、「今」と一つではありますが、「い・ま」この瞬間の「今の様子」に気づくことは、永遠にできなくなってしまいます。

           

ですから、禅では、問うことによってずれてしまう「今」を、あえて言葉を徹底的についやすことによって、「今の様子」に気づくことを目指すわけです。

                       

しかし、これは、決して知ることではありません。  「今」は、人の考えによって、知ることもつかむこともできません。

     

ただ、言葉を尽くし、人の考えの枠を外すことによって、はじめて「形の無い今の様子(=自分自身)」に気づくことができるのです。

     

あくまでも、私達にできることは、「形の無い今の様子」に気づき、この無限の「今」から、自分に必要と思う「い・ま(=言語・科学・芸術・経済etc)」を汲み取ることなのです。

     


■皆さんのご意見を見てみる



地域別・地霊園ナビ


ごりやく・願掛け・参詣


はちす会推薦・永代供養墓


仏教格言毎日一言


群馬県安中市


お釈迦様に帰ろう

pagetop


© hachisu-net.com