「迷い」と「悟り」

                                                                                         

曹洞宗僧侶  柴田 関山

皆さんは、仏教は、「人は迷っているから、迷いを無くして、悟り・解脱・空という状態にならなければならないと解いている」と、思っているかと思います。

しかし、これは逆で、「悟り・解脱・空」というのは何か特別のことを表しているのではなく、今の私達の様子を、仮に、「悟り・解脱・空」と「言葉という形」に見せたのです。

ですから、これから何か特別な訓練をして、「悟り・解脱・空」という状態になるのではなく、今の私達の生活そのものを表しているわけです。

では、何故、私達は、今の生活そのものが、迷いを離れた「悟り・解脱・空」であると気づけないのでしょうか?

それは、どうしても、「迷いというもの」「悟り・解脱・空というもの」に、人の考えが入ってしまうからです。

つまりは、「迷いとは?」「悟りとは?」「解脱とは?」「空とは?」というように、そこに人の考え(思想・概念)が入ってしまうため、今の私達の様子から遠く離れてしまうからです。

ですから、私達は、言葉(考え)と事実(存在:本当は事実・存在とすら言えない)とは、違うものであることを、あらためて問い直し、言葉というものを徹底して追究してみる必要があるわけです。

そして、今の私達の様子は、「悟り・解脱・空」と名づける以前の、この世界の様子であり、人の考え(思想・科学・宗教atc)を、すべて?み込んでしまうほど深い様子であることに、気づいてゆかなければならないのです。

そして、今の私達の様子が、人の考え以前のこの世界の様子であると気づけたとき、はじめて、私達は、人の考えそのものが、「迷い」や「悟り」を生み出していることに気づいてゆけるのです。

                        

pagetop