僧侶の派遣は明確なお布施の「はちす会」
文字の大きさ

■皆さんのご意見を見てみる

信じる心

釋 健蓮  

信心を持つ気持ちのことです。

実は、何ものかを信じる気持ちというのを持つことは、とても難しいことです。

だいたい人間は自分すら信じることが出来ません。だから何事にも不安を感じたりしてしまいます。また、自分を信じることが出来ないのですから他人を信じることなんて、出来るはずがありません。

しかし、それは当たり前のことですから悲観的になることはありません。

そもそも、他を信じない疑いの心は、人間が捨てることの出来ない煩悩のひとつです。

人間が現世で物質的に幸せを感じたり、物質文明を発達させて生活を向上させるのも、とどのつまり、煩悩が原動力になっています。

疑いの心はそれを持つことで、犯罪の被害から逃れることが出来ますし、災害を回避することも出来るのです。病気も予防出来るでしょう。

何事も無条件に信じることが出来る人は脳天気と言われ、まず疑いの気持ちを持つことは、転ばぬ先の杖、とばかりに、準備の良さともとられますし、機転が利くと思われることも多いです。

このことからも「信じる気持ち」は本当に難しいですね。

それが目の前にある現金であったり、常識の範囲にある物質ならばともかく、目に見えない人の気持ちであったり、予想や希望であったら、本当に難しいことだと思います。

浄土真宗という宗派は信心を大切にします。

坐禅を組んだり回峰行を行うなどの荒行はありませんが、言わば形のないものに対する信心を重要視しています。しかも、その信心は自分から「信じよう」と思っては駄目で、如来の声を聞く、つまり、ある日突然、両親の無言で無償の愛に気がつく、ああ、自分はこんなに大切にされていたのだ、と思い知るように湧いてくる気持ちのことです。

つまり、この気持ちは両親の愛によって「いただいた」安らぎの気持ちな訳です。

自分から手に入れようとした安らぎではなく、他のものからいただいた、つまり自力ではない他力の安らぎです。

他の不安を制圧してしまうほどの安らぎです。

このようなプロセスで得る信心を浄土真宗では阿弥陀様の他力本願による信心と言いまして、大切にしているのです。

このような形のないものに対する信じる心を得た時、どの位の安らぎを得ることが出来るのでしょうか。

小生はまだそこまで至っていませんので分かりません。

ただ、人間は両親の愛はもちろん、損得勘定を離れた愛情や気持ちに接すると無上の喜びを感じることが出来ますよね。

そう考えてみますと、一刻も早く、真実の信心をいただいてみたいと思います。

というよりも、両親の愛情と同じく、すでにいただいているものですので、それに気がつくのは、あとは自分の受け皿の問題なのだと考えています。

hasu-line


post このお坊さんへお手紙

Key word of bookshelf




 
  僧侶の派遣は明確なお布施の「はちす会」