宗派を超えた・やさしいPC法話

自分は誰のもの?

釋健蓮

「私には子供がいる。私には財産がある」と愚かな人は思い、そして悩む。すでに自分すら自分のものでないのに、どうして、子供が、財産が、自分のものであろうか。」--出典--ダンマパダ(法句経)六十二

「すでに自分すら自分ではない」とは、色即是空の考え方から明らかでしょう。

その昔、お釈迦様のお弟子には大変立派な方がたくさんおられました。

そんなお弟子のおひと方が、ある日お釈迦様に公案を請いました。公案とはじっくりと考えて、己なりの答えを出す、いわば課題のことです。

お釈迦様の出された公案は「汝、盗むなかれ」でした。

お弟子は考えこんでしまいます。

お釈迦様とお弟子は、もう何年も寝食をともにした師弟です。お弟子が人の物を盗む人物でないことは何よりお釈迦様が一番ご存知のはずです。

何日間も考え抜きましたが、その意味はどうしても解りませでした。

暫くして。 ある日お弟子は食物にあてられたのか、腹痛に苦しんでいました。

痛む腹部をさすりながら、何故、自分の身体なのに自分の意思で痛みを消せないのか、何故、自分の自由にならないのかと思いました。

ここでお弟子ははっとします。

そうだ。いままでこの身体は自分のものだと考えてきたが、そうではないのだ、自分の意思で手足が動かせるから自分の自由になる自分のものだと信じていたが、そうではなかった。借り物なのだ。大切な借り物を自分のもののように乱雑に扱っていたのだ、これこそお釈迦様の仰る「盗み」に相違ない。

大切な借り物だと気がついた時、自分を大切にする気持ちが湧いてくるでしょう。 深酒や過度の喫煙なども控える気持ちになるでしょう。 俺の身体は俺が一番知っているんだ、というのは開きなおりでしょうし、大切な身体の不法占拠かもしれません。

ダンマパダの言葉は自分の身体が自分のものだと信じている気持ちは、自分が作った思い込みであると言っています。つまり、色即是空です。

ですから、自分の家族や財産が自分のものであるというのは社会的に決められたことではありますが、真理ではないということなのです。

時代や場所がかわれば、国家や風習の前では、当然と考えられていたことなど、あっさりと否定されてしまうこともあります。

つまり、ないものなのに確かにあるものと決めて、在るものと信じている訳です。

だから、真理からすればないものにとらわれてはいけないと諭されているのでしょう。

しかし、それはそれ、これはこれ。

家族も財産も大切です。

これらを守らなくてはなりません。

しかし、守って行くことは煩悩です。

煩悩を絶つと家族を守れない。

パラドックスです。

だから、お念仏があります。

「不断煩悩得涅槃」。親鸞聖人による正信念仏偈の一文ですが、煩悩を断つことなく涅槃を得る、という意味です。

これによりパラドックスは解決された訳ですが、真理としての 「自分であって自分ではない」。 ことは理解していたいと思うのです。


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