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  祈願 供養の意義

虚空比丘

雲 水

問う、和尚、今までのこの何十年間というもの仏事を営むのを在家の方より依頼を請け、法事を執行してまいりましたが、本当のところこの祈りという行為ははたして何物なのでしょうか、またこの祈りの成就という効果はあるのでしょうか。所願成就から闘病平癒、死しては成仏と。如何でありましょうか。

虚空比丘

答う、雲水、あなたは一僧分でありながら、今一度自らの祈りに確信がもてない様ですが。それはさておいて、新年恒例の初詣など何十万人の人がと報道されますが、そうした人たちが祈る願いはそれぞれでありましょう。誰しもがこの一年が幸多き良い年であることを祈るのは間違いないこでしょう。しかし、残念なことに私たちはこの世に生きている限り必ずしも年頭にあたって祈願した通りの息災多幸のまま過ごせるとは限らないのであります。

それというのも、もともとこの世は悲喜こもごもの諸事象によって綾なされ、移り変わっている現象世界なのでありますから、喜びや楽しみの裏側には必ずや怒りや悲しみが付き従っているというのが、この世の真実の姿なのであります。ですから、自分にとって楽しいこと、喜ばしことだけを願うという、こうした一方的な願い事は、そもそも理に反した祈願ということになるのでありましょう。

雲 水

本来の仏教の中心法理として再認識致しました。元々我が心の赴く欲望なり、願望成就の為に、仏教が説かれたのではないとは、仏教者として当然の認識事項でありました。ですが現今の仏事法事等のほとんどがこの祈願または供養を本来かの如くにしているのではないでしょうか。また在家の方々の殆どが僧侶、寺院とは古よりその様なことをなす所と理解しているのではないでしうか。

虚空比丘

そのとおりです。自の欲得を中心にした祈願、供養など無用でありましょう。

また、史実の上でも仏教僧侶や寺院はそのように扱われ、その一役を担わされてきた面もあります。所謂、拝み願いを成就させる者と、願いを請う者という二者間での需要と供給を結ぶ社会生活基盤と同じ様に。

しかし、だれしもがこの悩み多きこの世の住人である限り、無終以来の縁に因って、今ある自分とその周囲の全てが複雑に絡みあい、この苦楽を招いているのでありますから、これはもう自分という枠組みを超えている力の段階とでもいうものに縛られ支配されてもいるわけです。これを仏教では「業=カルマ」と言いますが、そこで、この呪縛から自ら解き放され、真実の自己へ誘う多大な方法のひとつが、この祈願や供養という行為でありましょう。

ここで大事なことは祈願、供養とは自己の心が真実へ誘われていく段階的な行為ではあるけれど、あくまでもひとつの方便であり、何事でも言える事ですが、この方便というものを仮りて通してでしか、真実を見通したり、顕わすことができないということです。

雲 水

なるほど御老師の申されますとおり、ここまでの祈りという意義をお伺いして、その上でなされる祈願なり、供養の意義も聞かずとも自然に理解できます。ありがとうございました。

虚空比丘

貴僧のこれからの僧道に神仏の冥加の賜わらんことを。





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