お供えもの

小西 竜刀

宗派によりますが、仏壇等にお供えをされる機会があろうかと思います。

旅行先で買ってきたお土産、或いは故人のお方が好きだったもの等々。


先ほど宗派により、という一文がございましたが、毎日お茶やらご飯を供える場合のお話として。


毎日お供えするのが面倒だなあ、なんて話を聞きます。

日々の仕事等に追われ、朝の慌ただしい時間にそんな余裕はない、と。

おっしゃるお気持ち、重々分かります。


ちょっと待ってくださいね。

あなたにご家族がいる前提で話をしますが、そのご家族がお腹を空かせていたらどうしますか?


もしあなたが主婦なら、その時間に見合った食事なり、なにかしらの空腹を満たすものをそのご家族に提供することでしょう。

もしあなたが子供なら、その親御さんになにかしらの声をかけて必要なものがないか尋ねることでしょう。


ご先祖さま、或いはご夫婦なり親子であればそのお亡くなりになった方が生きているならば、同じことをされませんか?


これは水子さんだって同じこと。生まれてくることが様々な事情でできなかったとしても、生きていた命には変わりないんです。

赤ちゃんが泣いていたら誰しも「お腹空いたのかな、それとも眠いのかな」なんて具合で気にかけるでしょう。それと同じことなんです。お亡くなりになってしまって仏様になり、その方の声が直接聞こえなくても、生きていた時と同じように食事を出したり、お茶を出すという行為が仏壇にお供えをするという行為なんです。


確かに面倒というお気持ちも分からなくはありません。


でもね、現世で生きているか過去に生きていたかという違いだけで、同じ命のあるもの、あったものには違いないんです。


どうしても忙しくてご飯やらお茶やらお供えできない日もあるでしょう。

ただそれを当たり前と思うのではなくどこかココロのなかで「ごめん、今日は出せなかったよ…」と思う気持ちが持てるかどうか、そこに意味があるんです。


多くなくてもいい、あれもこれもとたくさん用意しなくてもいいんです。

ただひとつ、そのお亡くなりになられた方を供養したい、供養しなくちゃいけないと思える気持ちが大切なんです。

なので義務でやっていたらいけません。あくまでも「○○したい」と思うこと、これが肝心。


偉そうなことを申し上げたようで恐縮です。

それでもやはり供養=面倒というのは如何なものかと思った次第でして。


ご一考いただければ幸いに存じます。

生きていようが、この世にいない状況であろうが、もとは同じ「いのち」ということですね。

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