こんな大仰な題をつけてしまうと、題に負けてしまって、どう書いたらいいのかわからなくなってしまう。学問とは問いを学ぶ事であって、問いをもつということが、そこにもう答えが与えられている、という意味のことを安田理深先生が言っておられたような気もするが、これは我田引水か、自己弁護の言い訳かな。なにせ、こちとら学問なんて形で仏教を学んだことがないのだから。
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大体、この題はポイントが三つに分かれるのであって、ひとつには、現代人とは何か。もうひとつにはそれでは親鸞聖人の信心の世界とは何か。最後に、我々にとって救済とはどういうことか、どうなることが救済なのか。という三つの定義づけがはっきりしないと、問題がとけない。なら、私にはとけない。この三つの定義づけは、私の手に余る仕事なのだから。でも、こう発題した以上、私なりに考えていかねばならないか。
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現代とは、思想の解体の時代なのであろう。別段、マルクス主義だけが思想と言うわけでないが、その影響力は大きく、一時期、真摯な知識人の心をつかんでいた。しかし、ソ連・東欧社会の崩壊は、平等社会を目指した共産主義思想の敗北ということなのだろう。理想的社会を目指した壮大な歴史の実験の失敗なのだろう。共産主義と資本主義の対立の構造は、資本主義の勝利という形で決着がついた。もはや真摯な知識人にとって、拠るべく思想が見失われたということであろう。知識人の絶望。私たちだって、資本主義が絶対に正しいかと言えば、疑問が残る。(どこかおかしい)
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ただ一向一揆を左翼的観点から、単なる民衆蜂起だと、見る見方も問題があるのではないか。彼等をつき動かした念仏の信を顕らかにしないと、問題が残るのではないか。 |
拠るべく思想的立場が見いだされないとするなら、人は己の感受性、感覚だけを頼りにこの暗闇の人生を生きようとするだろう。
又、理想主義の死は、現実主義の立場を基本とすることになる。ただ、現代ではこの現実主義というのは、経済的現実主義の立場を指している。現代では経済的功利性が価値の高いものであって、それにさまたげになるのは排除するという余裕のない世界観の中にいきているのだから。むだなものの有用性ということを無視して成りたっている私達の社会。 |
聖道門は理想主義であって浄土門は現実主義という分け方をするが、経済的現実主義とは経済の繁栄という理想主義であって、経済法則を超えた世界、荘厳された浄土ということは、普通私達が現実現実といっているものと違うのである。宗教的真実は金では買えない。 |
しかし、私達は経済とは無縁に生きてはいけない。
仏教経済学などというものがあるとするなら、それは何だろうと考えることがある。それは布施の経済学ということなのであろうか。資本主義の勝利の後にやってきたのは宗教上の違いよる対立。イスラエルとイスラム。アメリカでおきたあのテロ事件。
オーム真理教でもそうであるのだが、宗教は自己絶対化する傾向性がある。自己の教義を自己絶対化してしまう。私が正義であり、他は邪悪なるものだと、言い切ってしまう。戦争の論理。正義と正義のたたかい。(たとえ牛盗人と言われようと、後世者ぶるな)
真宗の論理は自己絶対化が何処かで崩壊している。そして、悪の問題をとりこんでいる。何処かで、自己信頼が崩壊している。
人間とは縁があれば何をやるかわからない存在だという人間観がある。
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自己信頼の崩壊は絶対他力の世界をひらいてくるのであろう。絶対他力の大道は全ゆるものを、若かろうと、老人であろうと、男であろうと、女であろうと、悪人であろうと、善人であろうと、全て弥陀如来の中に包摂していくのであろう。慈悲ということ。 |
そして、そこに人類の根底にある祈りに目覚めるのであろう。何故人は争うのか、何故人は殺しあうのか。 |
南無阿弥陀仏の透明なひびきは人類の魂の根底を洗い、人類の悲願を顕現していく。
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