一 切 事 是 道

                                                                                         

曹洞宗 斎藤明慧

今日はこの法話を読んでいただき有難うございます。

世間では様々な事件が起きていますが、世がいかに移り変わろうとも無くてはならず求むべきものは真実=道ということではありませんでしょうか。今回はこの真実、すなわち道ということについて少しお話をさせていただきます。

一切事いっさいじどう。更に何処いずこに向かってか道を求めん。』求むればすなわち離れるものであります。

私達は日常の全てが道であり真実でないものはない。と時々耳にするところではありますが、日々の生活の中で真実を実感し満足・安心の中で暮らすことができているでしょうか。

日ごろ私達はこっちは好いあっちは嫌だと取捨選択の中に生きています。人それぞれに様々な価値の基準があるでしょうが、その基準を立てる「自分」こそが計らいであり、真実をありのまま素直に受け取れず苦しみを生み出す元となっているものなのです。

この「自分が」という思慮しりょ分別ふんべつによって私達は広大で自由な真実の世界を狭く不自由のものにし、その中にいながら他に満足を求めて生きています。計らう自分がある為に自分という色眼鏡いろめがねを通してしか物事を見ることができなくなってくるのです。

見る・聞く・感じる・知るなどの人間の感覚ははただ見る・聞く・感じる・知るという現象だけであって、その間に「自分が」と思慮分別の入る余地はありません。自分という色眼鏡を外せば真実がそのまま現れてきます。

道元禅師のお示しに『仏道をならふといふは自己じこをならふなり。自己をならふというは自己をわするるなり。』というお言葉があります。仏道という名の真実は自分に備わっている。故に自分を学べば真実がわかる。という事ですが、自分を学ぶことは自分を忘れることである。とはどういう事でしょうか。習っている自分と習われている自分、どちらも自分です。どこまで行っても見つつ見られつの二人三脚です。この作為さくいを止める時、はかる自分を捨て去る時に、自分を忘れ本当のことを知る。身に備わる真実を味わうことができます。不平・不満・不安を言う自分が失せ、取捨選択する必要の無い道のど真ん中にいることを実感できます。

この事は極めて平々凡々たる私達の日常のいちいちなのですが、自分を挟み込むため気付かずに見過ごしてしまっています。道=真実=幸福は外に求めるものではなく、ただ自分を忘れ去る時そこに元々あったのだと気付けるものなのです。『一切事是道』これは私達の平常なのです。 合掌


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