写経の功徳
妙純
皆様、今日は!
この様な素晴らしい季節に皆様にお逢い出来ました事をとても嬉しく思います。
皆様良くご存知で親しまれております『般若心經』のお話から始める事に致します。 この『般若心經』とは、一体何を言おうとしているのか気になりますよね。
まず、『般若心經』とはどんなものなのかと言いますと、御釈迦様の真髄を説くお経です。その中でも一番短く書かれおり、二百六十二文字にまとめて御座います。
六四九年に玄奘(げんじょう)三蔵が漢訳して日本に伝わりました。
神様でも仏様でもとなえるのが『般若心經』で一番親まれております。
お經は見るだけでも功徳があり、そのお経を声を出して読んだら更に功徳があり、そのお経を自分の手で一文字書く事は、仏様一体を作る位の功徳があると言われております。
これ以上言うとクドク(・・・)なりますので、言いませんが・・・(笑い)
そしてその『般若心經』の登場人物は、まず御釈迦様がいらっしゃいます。
それに御弟子さんの観自在菩薩様、舎利子様、その他大勢のお弟子様です。
そのあらすじは、多くのお弟子様が御釈迦様を囲んで修行をしていたその中で観自在菩薩様が御自身の修行の成果を舎利子様その他多くのお弟子様に話をしました。その内容は、般若の行により静かな安らぎの境地に至る事が出来ましたと言うお話です。
それにより多くのお弟子さんが般若を実践しようと言う事になった訳です。
大変短いけど実は仏教の真髄が込められている、お経なのです。
御釈迦様の教えは亡くなった人に教えを説くのではなく、今ここに生きている私達に対していかに生きたら良いかを勉強する事を言っています。
そして、どの様にして今日一日を過ごしたら良いかを説いております。
どこが真髄かと言いますと、幸福を得る為のもう一つ、御釈迦様の教えは、全てのものは必ず原因と結果なのです。これを『縁起の法』と言います。これは二千五百年前にこの方法はおしゃかさまが発見されました。この世は、奇跡が起こる事は無いと説いたのは御釈迦様です。
これはどういうことかと分かりやすく説明致しますと、例えばここに一粒の種があります。でも何もしなくては種のままですが、それを蒔いたら、花が咲きますが、水をやらなければ芽が出ません。水をやっただけでは、育ちません。そして太陽を当てるとどんどん伸びて行きますが、それだけでは花は咲きません。それを育てる事は『縁』と言う条件によって結果として花が咲きます。
反対に縁が無ければ『縁欠不生』と言って生まれないのです。
私達には、幸福を邪魔する心の鬼がいるんです。
それは、何故かと言いますと、私達は常に夢を見たり、自分の身勝手な事を考えたりします。
そうでなく、現実をしっかり見なさいよと言う事なのです。
心經には『無無無、不不不』とあり、良く否定のお經ではと言われますが、そうではなくそういった『無無無、不不不』を認めた上で、自分はどうしたら良いかを考えるのです。
『貧(とん)』はむさぼり=見たものが皆何でも欲しくなる。つまり欲望です
『瞋(じん)』いかり=自分の気持ちを受け入れてくれると良い人、受け入れない人は悪い人になってしまう。
『痴(ち)』物事の道理を知らない愚かさ
それを繰り返すから、迷いの世界は消す事が出来ないのです。
それを取り去るのではなく、それを乗り越えた時素晴らしい世界があり、悟りの境地があります。
『悟りは』決心する事。正しい決心はどんな事があっても揺らがず変わらないのです。
これが『悟り』です。
全ての物を冷静に何が正しいかを見極めることがとても大切です。
仏教は、今や遠く形式的な面の方が多くなっておりますが、本来はとても身近なものであります。
書く事を身近で出来るのに『写経』があります。
写経とは、経典を書写することで経文を一字一字写して行きます。
写す事は、まねる→まねぶ→まなぶとなり、『学ぶ』の語源は『真似る』です。
それで真似て写した途端に私達の心が変わっていってしまうのです。
どう変わっていくかと言うと、最初は無心に書いておりますが、そのうちにうまく上手に褒められたいと思う様になります。それが自我なのです。それは謙虚で素直な人に思いやりのある優しい心の養いの訓練です。ですから、字の上手い、下手は関係御座いません。
その様に心の訓練をする行いないのです。
『弘法大師様』は修行の時代から多くの経典を写し、祈願された事が伝えられております。又『興教大師様』も『もし、私の言う事が虚言ならば自ら修して知れ』とお示しになって、写経の功徳を説かれております。
そして特に『写経』は心の洗濯機と同じで御座います。
心にたまった嫌な事を綺麗に洗い流してくれるのです。
不安や悩みが消えて元気が出ます『写経』は、無心になった時にするのではなく、気持ちが不安定の時に私は御勧めです。腹が立った時、その悩みを書きながらぶつけて、相手を許す心が芽生えるのです。
そして相手を思いやる『あぁ自分も悪かった』と書いているうちに反省する気持ちになるのです。この事はとても大切です。
例えば具体的に言いますと、職場において嫌な上司がいて、嫌な事を言われ、嫌な言葉が『とらうま』となって頭の中をいつまでもかけ巡り、相手がその場に居なくても相手の顔が何度も出てきて、嫌気がさして来てしまいます。
そんな時に『写経』はお勧めです。
早く嫌なことは忘れて自分の大切な時間を沢山作る事です。
上司が何か嫌なことを言った言葉が気になって面白くない時、夜勤めから帰りこの『写経』をして、翌朝すっきりとして(実は心の中は悔しいけど)その上司に昨日は何事も無かったかの様に『お早うございます』と明るく元気に言ったなら、その嫌なことを言った上司もきっと貴方の明るい笑顔の挨拶で参ってしまい貴方のペースに巻き込まれてしまうのです。
これは私が長い間、職場におり色々な経験をした中で、自分の楽しい時間を過ごしたい為のゆるがない私なりの技でした。そして仕事も順調に進むからなのです。
そして私ごとが続き恐縮ですが、私は十年前に父を亡くし、七七日忌が過ぎ一段落したその辺りから、日中の仕事が終わると、ホロホロと涙が自然にこぼれて止まらなかったのです。
ひとかたならぬ私の我儘を黙って聞いてくれて、いつも私の味方をしてくれた父親でしたから、父の死はショックでした。
その状態がいつまでも続くのを知って、見かねた親戚の寺の奥様が、長谷寺の『写経』を送ってくれまして、すぐにその『写経』をし始めたのです。
でも書き始めると今度、涙が止まらず、用紙を何度も墨と涙でぐちゃぐちゃになってしまい、もっと昔の家族の三人の死まで重い出してしまったのです。
悲しみは悲しみを呼びます。
もうこれ以上でないと言う位涙した時、なんだか自分の胸に父が納まった様な気がして、自分が強く感じたのでした。父が私の中にしっかり納まった様で晴れ晴れした気分になり、ここに父が居ると考えさせられました。
余分にもう一枚送って頂いた写経用紙に書きなおし、晴れ晴れした気持ちで送る事が出来ました。
その時本当に写経の有難さをしみじみ感じ、勿論頂いた奥様にもお礼の言葉を言いましたが、これを作った元であります本山の方を見て手を合わせたのは、私がまだ仏門に入る前の話で御座いました。
そして一言で言えば『般若心經』は色々な物事に『こだわらない』と言う事なのです。
所で、物は分ければどうなるか、細かく小さくなります。
幸福や喜びは分ければどうなるかと言えば、大きく広がります。苦しみや悲しみとどうなるかと言いますと、分ければ軽くなります。
今私達は日本と言う国に命を頂いたのですから、少しでも共有したならばこれはこの時期に頂いた唯一できる事です。
私もじっとしているのではなく、仏心の種まきをして歩くのが本当の仏教を学ぶ私の役目と考えております。 そして、皆様が生きているうちに『悟り』の世界へ一人でも多く行かれます様、合掌致しましてお話の結びとさせて頂きます。
最後迄お聞き頂きまして、有難う御座いました。
妙純