死別の体験を機縁・バネとして

西田克己

私事について語ることをお許し下さい。私の名詞には僧侶であること、そして心理士であることが示されています。これは、想えば不思議なことなのです。私は元々、在家の者で実業家の家系に生まれてきた者であるからです。

そんな私であったのに何故、僧となり心理士となったのでしょうか。その理由は明瞭で私自身が12歳の時に父を、そして翌年には祖母を亡くすという出来事にみまわれたからです。

死別を経験することによって与えられてしまった課題を解くことがまさしく私のライフワークとなったのです。(突然の)死別によって引き起こされてくる様々な心理的な、感情的な反応をつぶさに観、処するために臨床心理学の学びに関心を抱くようになりました。心理学的には「対象喪失」や「喪の作業」ということになります。

大切な、なくてはならない存在を失ってしまった悲しみ、淋しさ、寄る辺なさを痛感する過程において「死は父や祖母だけのものではない。他でもないこの自分のことでもあるのだ。自分も死ぬのだ!人として生まれた以上は必ず死ななければならない。あっー、なんで生まれて来てしまったのだろう!」という嘆息と共に、また死の不安・恐怖も生じて来ました。

この嘆きは情緒的でありますが人間存在の普遍的・根本的な問題に繋がるものであると思います。「死とは何か?生とは?」(死を問うことは生を問うことになります)といった問題を問い続けてきたその結果、いつの間にか宗教家となっていたという感じです。ともかく、善し悪しは別として死別の体験を機縁(「機」には「はずみ」という意味があります)として現在の私があるのです。

さらに言えば、死があるからこそ生がある、可能となる。死のないところには生もない。死は生の基盤のようなものだ、という捉え方に行き着きます。

これは通常の発想、認知の逆転・180度の転換です。「在る(生きている)ことの不思議」、「元来、無であったものが有として偶々あることへの驚き」です。この発想は決して珍しいものではなく(私は仏教を縁としてそれにふれましたが)古今東西を、そしてナニナニ教・なになに宗ということを超えて人類の普遍的な知恵として蓄え、伝統されてきているものです。人類は豊富な精神的遺産を蓄えています。だから、それらを頼りとして安心して死や死別(対象喪失)に向かえばよいと思います。

合掌がっしょう


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