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宗派を超えた・やさしいPC法話

人間のはからいを超えるもの

釋 信充

仏教用語がもとの「不可思議」ということばがあります。一般に「不思議」と略され同じ意味で使われています。辞書によりますと、「人間の認識、理解の限界を超えていること。また、そのさま。仏の智慧、神通力などの形容に用いる。」とあります。不可思議という数の単位もあります。仏説阿弥陀経には「不可思議功徳」という語句を随所に使って仏をたたえ、阿弥陀如来の本願は私たち人間の尺度を超えたものであることが示されています。

しかし、その反面で不可思議な事が曖昧すぎて、宗教離れを起こしているような現実もあります。

現代人は、非科学的で目に見えない力はよくわからないと嫌うのでしょう。テレビなどでは、超能力、霊能力、予知能力といった力が、あたかも宗教的能力であるかのように持てはやされています。能力自体は肯定も否定もしませんが、他人と異なった能力には宗教性は全くないと思います。

例えば、霊能力によって自分の素晴らしい前世がわかったとしましょう。しかし、一緒に見てもらった友人は、前世が悪いと言われたとしたらあなたはどう思われますか。「私は良かったけど、○○さんは可哀想に…」という感じでしょうか。対して、その友人は「○○さんはうらやましい。これから私はどうしていったら良いのか…」と不安に陥ることでしょう。自ずと互いの関係のなかに、他を区別し、自己中心の欲が生まれ膨らんでいきます。このような力が宗教と言えますでしょうか。

超人的な能力をかざして「病を治します!」「儲かります!」といった人間の目先の欲を利用した本来の宗教とはかけ離れたものが多すぎます。また、人の心を巧みに利用した欲にまみれた勧誘なども多すぎます。しかし、仏教は人間そのものを等しくとらえ他を区別したりしません。

『歎異抄』の中に「念仏は義なきをもって義とす。不可称不可説不可思議なるがゆえに」という親鸞さまのお言葉があります。念仏は人間の「はからい」を超え、人間に「はからわれない」ものであるとお示し下さいます。つまり、理屈や思想の世界ではない、念仏の生活のなかで、人間ありのままの真実を受け取るところに、仏さまの不可思議な功徳に気づかされるのでしょう。

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