死後について

信楽(しんぎょう)

「後世をおそれ、往生を願いて念仏すれば終わるとき必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外の事候わず。」(法然上人御法語「安心」より)

命ある者は必ず死ぬという定めです。では、存在していた精神(人格や魂)は死後どうなるのでしょうか。仏教では生まれ変わり来世を迎えるといいます。姿かたちをかえて生まれ変わりを延々と繰り返すのです。その終りなき生死を輪廻といいます。

冒頭に挙げた御言葉に「後世を恐れ」とあります。自らの死後、来世を恐れる、不安に思うという事ですが、来世を迎えることが恐怖であるということに釈然としないと思います。輪廻以外の思想を持つにしろ死後はやはり不確かであるし、例えば、知識もなくただ「天国に行った」といい、よくわからないまま何となく幸せな場所へ行けるなんてことが本当にあるのでしょうか。やはり不安に思うべきものなのです。

考えてみますと自身の前世の記憶があるでしょうか。私はありません。前世はどんな境涯であったか知る由もありません。では来世を迎えたならば今あるこの生涯での記憶はどうなるのでしょうか。

誰もが自身の生涯において誰かと死別し、また自身も最後には誰かを残しこの世から去ります。そして全て忘れ来世を迎えるのでしょう。夢まぼろしのようです。何もかも忘れ輪廻を延々と彷徨い続けていくのです。悲しく寂しいことです。やはり多くの人が、輪廻から解き放たれ、死別した愛おしい方々とも再会し心を通い合わせ永遠に安らぎたいと願うのではないでしょうか。

仏教には輪廻から解放され愛おしい方とも再会が叶う心安い教えが一つ説かれております。それは、念仏を称えることで阿弥陀仏の救いにより輪廻から解放され、〈苦しみ迷いの消滅した静かで全てが明瞭になる〉永遠の世界〈極楽浄土〉へ生まれ無限の命を得て安らぎに至るという教えであります。

冒頭の御言葉に「念仏申すより外の事候わず」とあり、極楽浄土へ往生するためにはただひとえに念仏を称えなければならないといいます。それは阿弥陀仏が念仏するものを必ず救うと誓われたからなのですが、なぜ念仏なのでしょうか。

念仏とは「南無阿弥陀仏」と声に出して称えることですが、それは「私自身ではどうすることも出来ない輪廻の迷いから、阿弥陀仏よ、どうかどうか救いとって下さい」とすがるように(例えば、幼い子供が必死に親の名を呼ぶように)心から阿弥陀仏の名を呼ぶことであります。大悲の阿弥陀仏はその(時には悲痛な)呼ぶ声をけっして逃しません。ですから念仏は心からの呼び声であり阿弥陀仏に対して直接に通じ、極楽浄土へ生まれるための純一な行為なのです。

死の不安が晴れ、心が永遠に安らぎ、いずれ懐かしい方と一つの場所で心を通わせたいと願うのならば、どうか阿弥陀仏の慈悲があるのだと信じ念仏を称えて頂きたいです。即ち、冒頭の御法語ただ「往生を願いて念仏すれば終わるとき必ず来迎せさせ給うよしを存じて」です。阿弥陀仏は呼ぶ声を決して見捨て給うことはありません。

 


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