
神仏の教え
りょうかん
本日 皆様とお勤めをさせていただきました。皆様と亡き方のご
新聞やテレビでのニュースを見聞きいたしますと、耳を覆いたくなるような災害・事件・事故が入ってまいります。どの事件や事故にも加害者や被害者があり、そのどちらにも親族と家族がおいでになります。その方々達が、一体いつになったら平常心の生活を送る事ができるのでしょうか。長い時間がかかってしまうのではないかとご察しいたします。爪に日を灯すような思いで、日々を真面目に坦々と家族と、つい先ほどまで時間を共有された方々が、一瞬にしてお亡くなりになられ、その方々の冥福も死を確信し成仏も願う事もなく、なんと理不尽な事でしょう。亡くなられた方々のご遺族の皆様はその死を受け入れる事も認める事も出来ずに、今も苦しんでおられるのではないかと思います。ただただ時間だけが、救いの手立てとしかいいようのない思いで49日間 100ヶ日忌を共に過ごさせていただく事がございます。「信仰」という事を考えます時にこれだけ拝んだから、これだけ
だれもが事件に巻き込まれ事故に遭うかも知れず、災害に遭って逃げ遅れる事も、病気になる事も年老いて体に障害を持つ事も、だれしもが、そうなる可能性を含み生きている事を。
信仰は病人が病気になった時に病人としてどのように生きていくか、その係わりにどのように慈しみいたわりをもって優しく対応する事ができるか。災害や事件や事故に遭った被害者と加害者の係わりをもった人が、どのように相手の立場になって生きていくか。障害を持ったものが障害者として世の中に、どのような係わりを持って生きがいを感じ生きていくか、そこには命の重い軽いはなく、人として行うべき正しい道を、どのように生きていくか、それを教えて下さるのが神仏の教え、導きではないかと思います。手を合わされました時に自分達は、拝んでいるのではなく、たくさんの
合掌
