悲しいとき

クローバ

失恋したとき、受験に失敗したときなど人生にとって悲しみはつきものだ。

その中でも親、子供、恋人など大切な人を失ったときの悲しみはひとしおである。私は僧侶という立場から葬儀の場で沢山の方々の悲しみに向き合ってきたつもりだった。

しかし、悲しみを共有しようと心掛けてきたつもりでもそれはあくまでも上辺だけのものだったような気がしてならない。何せ自分は元気で、死がまだまだ先のことのように思えていたから。

法話も自分の言葉ではなかった。先生方や書物から学んだことしばかりであり、借り物である。

借り物は所詮借り物。自分の言葉で全力で話さないと聞き手には届かない。そんな法話しか出来ていなかった自分を今は恥じている。

死は悲しいものである。しかし、愛する人を遺して死んでいく者の悲しみ、寂しさはそれを超えるものだ。

私は癌になり、余命宣告をされてから初めて死にいく人の気持ちがわかった。諸行無常である。死ぬのは仕方ない。がやはり、悲しみ、寂しさからは離れられない。自分が死んだ後、本当に悲しんでくれる人が果たしてどれくらいいるだろうか。時が流れても私のことを覚えていてくれるのだろうか。そう考えると悲しく、寂しく、やるせない気持ちになった。

死んだらどうなるか。キリスト教では天国に、仏教では浄土にいくという。どちらも苦から解放された世界である。私もそうありたいと願っているが、確信がない。さて、どうしたものか。

死んだ後に何が残るかを考えてみた。自分なりの結論は亡くなった人の思い出と亡くなった人に対する思いである。この二つだけは残るはずだし、また残るべきである。

では、大切な人を失ったときどうすべきか。悲しいときには涙を我慢する必要などない。涙が枯れるまで思い切り泣けばいい。自分のために泣いてくれる人がいる。これが亡くなっていった人に対する儀礼であり、1番の恩返しではないか。

悲しいことは早く忘れてしまいたい。人間は忘却の生き物だ。時間が経つにつれて悲しみと悲しみの記憶も薄れていくのが常である。

しかしながら、記憶に留めておいて欲しいものもある。それは亡くなっていった方々が自分に対してやってくれたこと、そして同じ時代を生きたことである。それを自分だけでなく、後の世代に伝えていくことである。

合掌


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