宗派を超えた・やさしいPC法話

 いまを生きる

島津義弘 

いまから4年前、わたしの師匠が亡くなりました。90才でした。わたしは1才になる前もらわれてきたので、ほんとうの親ではありません。わたしが生まれてすぐ父親が亡くなり、50数年前の ことで田舎ですから、母親はわたしを育てることができずお寺に預けたのです。でも、本当に愛情深く育てていただきました。その師匠が亡くなってしばらくして、師匠の蔵書をなにげなく めくっていました。それは京都の庭園の本でした。すると、あるページが折ってあったので、読んでみました。

そこに書いてあったのは、日本の哲学の第一人者「西田幾太郎さん」の京都の庭園に関するエッセイなのですが、その一節に目が止まりました。ある日 西田さんが京都を散策していると、ある小さなお寺の掲示板に

「他は遂に我に非ず
亦他に何れの時をか待たん」

と、書いてあったのです。

それを見て、頭を棍棒で思いっきりぶん殴られたようなショックを受けたのです。いままで読んできた西洋の哲学書はいったいなんだったのか、この一言ですべてを言い当てている、と。

それからは、哲学の研究をやめてしまったというのです。

これは、どういうことなのでしょうか?実は、この言葉は、仏教の真髄を ずばり言い得ているのです。

「他は遂に我に非ず」

は、自分以外はいくらがんばっても自分の思いどうりにはならない、どんなことでも他のせいにしてはなにも進まないよ、ということではないかと思うのです。世の中のせい、あの人のせい、このもののせい、というのは間違いで、すべては自分が変わるしかないのです。お釈迦様は(おのれ)こそ、己の()るべ」良く整えられた自分こそ、本当の頼るところだと言われておられます。

「亦、他に何れの時をか待たん」

自分には、いましかない。過去は、さっきのことは、すでに過ぎさったこと、もう悩んでもどうにもならない、 あしたは、まだこないから、あしたの 仕事のことであれこれ不安にかられてもどうにもならない。

きのうのことやあしたのことで、いまなにも手につかなければ、死んでいるのと同じなんだよ。いまを精一杯生きる、後悔や不安はあるけれど...。

と、いう教えなのではないかと思うのです。いまが続いて未来がきます。なかなかうまくいかなくても、いまを精一杯生きるいれば、何かが変わって、ちいさくてもしあわせの花が咲くでしょう。

合掌