「我(が)」という教えは、仏教の基本的な教えの
ひとつですが、仏教本来の「我」とは、「生滅変化を
離れた永遠不滅の存在とされる本体といわれるもの」
のことです。なんだかよく分かりませんが、現在私たちが
日常使っている「我」という言葉の意味とはかなり
違っています。
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お釈迦さまがお生まれになった頃のインドでは、
こういった「我」すなわち、「永遠不滅の本体」とは何か、
という議論がさかんにされていました。 たとえば、
世界は時間的に有限か無限か、
世界は空間的に有限か無限か、
霊魂と肉体は同一か別異か、
といった論議です。
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こうした論議に対して、お釈迦さまの仏教は、
このような実体や本体は、これを経験し認識することは
できないから、それが存在するかどうかは不明であると
して、これを問題とすることを禁じられました。
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それから約二千五百年がすぎた現在でも、宇宙は
空間的・時間的に限りがあるのかどうか、霊魂と肉体の
関係はどうなのか、といった問題には答えはでていません。
当時、世の中の時流に反して、こういった不毛の論議を
禁じられた、お釈迦さまの教えはすばらしい教えです。
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ひるがえって、私たちの生活を見ると、いまだに、
右か左か、どちらかに決めようとあくせくしている自分に
気づきます。
これはこうでなくてはいけないとか、ああいうことでは
いけないとか、自分勝手に決めつけてしまって、かえって
身動きできない状況に自分を追いこんでしまうことも
しばしばです。
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茶道の祖、千利休にこんな逸話があります。
ある日のこと、ひとりのお弟子が庭の掃除をしていました。
ひとつ残らず落ち葉をはききよめ、きれいに掃除をすませ
ました。ところが利休は、まだ掃除は終わってはいないと、
せっかくきれいになった庭に落ち葉を数枚、はらはらと散ら
せたそうです。
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雑草も落ち葉も何ひとつ残さず、きれいにほうき目を
たてた庭はうつくしいものですが、その中に数枚の枯れ葉が
落ちているところに、なんともいえない自然の情味が
かもし出されるのでしょう。
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人の心もこれと同じように、自分にも他人にも完全を
求めてしまうと、かえってギスギスしてしまいます。
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私たちは、我見という言葉があるように、従来からの考え・
行いに束縛されてしまうことがありますが、そんな時、
ふと一歩さがってみると、今まで見えなかったものが
見えてくるものです。
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「せまい日本、そんなにいそいで、どこにいく」という
交通標語もありましたが、かたよらず、あせらず、自分にも
他人にも、ゆったりとした心をもてるよう精進したいものです。
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