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本当の供養 釜ヶ崎の慰霊祭

阿弥陀堂栗桃庵 杉本好弘

私が昨年から活動の場としている大阪の西成のあいりん地区、通称「釜ヶ崎」とよばれる街で、毎年8月15日に、街の一角にある公園で慰霊祭が開かれます。以前から釜ヶ崎を拠点に活動しているカトリック教会「ふるさとの家」の「ミサ」なのですが、過去1年に誰にも見送られることなく命終を迎えた釜ヶ崎の人々を追悼するために、ここの司祭の配慮で、お盆の日に執り行われるのです。

ミサの始まる前に、夏祭りの世話役のFさんという人(普段は釜ヶ崎の人たちの仕事の確保に奔走している人です)が、レクイエム(鎮魂歌)を、ギターの弾き歌いで歌ったのですが、これが実にすばらしかったのです。後で聞くと地域の人の詩に、ご自分で作曲されたということなので、また驚きました。これにまず感動しました。

続いて、ミサが始まったのですが、ほとんどキリスト教色をださず、「お盆の法要」のように執り行われるという配慮に感心しました。慰霊の檀のしつらえもまるで「お盆の供養の祭壇」のようだし、司祭のミサの説教でも、神と仏とをともにたたえているのです。さらに、説教の内容も亡くなった釜ヶ崎の人たちのことだけではなく、日韓併合100年に触れ、広島の原爆に触れ、世界の紛争の犠牲者に触れ、実に広い視野と慈愛を持った、慰霊の言葉にあふれていました。これにも深く感動しました。

それから、浄土宗の私と浄土真宗の2人の僧侶の3人による読経が始まったのですが、このときには祭壇の前は、文字通り黒山の人だかりになっていました。慰霊祭が始まるまでは、ステージの催しにお酒片手に興じていた人たちが、まさに「慰霊祭の参列者」に変身したのです。読経が終わったときは、「ありがとう」という声も聞かれました。夏祭りの公園がこの一時だけは「慰霊の場」になりきっていたのです。これに、また感動しました。

「宗派を超えて」というはよく言われる言葉です。しかし、ここでは慰霊祭を執り行うキリスト者・宗派の異なる仏教僧と、さまざまな信仰を持つ(あるいは持たない)人々が本当に一つになって、名もない死者の霊を供養したのです。 この日は全国でさまざまな慰霊祭や追悼式が開かれたと思いますが、こんな感動的な慰霊祭はおそらくここだけではなかったでしょうか。お盆の日に、本当の供養とは何かを知ったように思います。そこに参加できたことはありがたいことでした。

蓮ライン