宗派を超えた・やさしいPC法話

経験の落とし穴とお題目

日蓮宗 柘植正也(つげせいや) 

僧侶という立場で過ごしていますと、悩みごとや打ち明け話を向けられることがあります。その方達は、何故私に向けるのでしょうか。私が僧侶だからということに他なりません。私のことを人生経験、社会経験が豊かだからというので、選ぶ訳ではありません。

考えてみますと、日蓮大聖人様は、ご自身は結婚なさいませんでしたが、信徒に夫婦や親子のあり方を説いています。お釈迦様は、妻子を捨てて出家なさいました。


自分は経験したから、正しいことを解っていると思っている人は、大勢います。果たして、経験しさえすれば正しいことが解るのでしょうか。

経験してない人間に何が解ると言ってしまったら、もともこうもありません。私たちは、世の中の99.9999…%は、経験していません。

私たちは、豆腐作りをしたことがなくても、美味いまずいの判断をします。返って豆腐屋さんが自分の作ったものしか食べなかったとしたら、その方が美味いまずいの判断が狂うかも知れません。


悪い経験は、消化してプラスに変えるのは簡単ではありません。悪い経験は、消化されることなく、屈折や卑屈など、負の遺産となってしまう場合もあります。


特定の経験に頭が支配され、考えが固まってしまいますと、それ以降、それに基づく判断しかできなくなるかも知れません。


以前、お酒を飲む店で、私と店主ともう一人の客と3人で「14歳の母」というテレビドラマを見ていました。中学生の男女間に妊娠が生じたことのストーリーです。

ドラマを見ての感想は、三者三様でした。私は、命の尊さがテーマだと口にしました。

店主は「世間を何も知らない子が、困難にめげず生きていく、だったら俺たちは尚更やっていけるんだよ、それを伝えたいんだよ」と主張しました。

もう一人の客は「自分のやったことに責任を持て、責任をとれ、ということですよ」と主張しました。

実は二人とも、自分の頭が支配されている次元からの感想だったのです。

店主は、飲み屋の経営の人生に満足していないこと、新たなことを始めたいことを、常々口にしている人でした。

もう一人の客は、卒業した学校の同窓会の事務局長を担当しており、会長の落ち度を責め、会長辞任を求める争いの渦中でした。

このように、同じことに対しても、それぞれの頭を支配しているものの違いによって、感想、主張は違ってくるのです。


私たち凡夫の心は、もしかしたら、特定の経験によって、歪んだ、曇った鏡の状態になっているのかも知れません。そのため、正しく映せないのかも知れません。心を明鏡に磨き上げて、正しく映し出せるのが仏陀(覚者)です。


学ぶことはもちろん大事ですが、ともすると頭でっかち、知識止まりとなってしまいます。

日蓮大聖人様は「…衆生と云も佛と云も亦かくの如し、迷ふ時は衆生と名け悟る時をば佛と名けたり、譬えば暗鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷う心は磨かざる鏡也、是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし…如何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを是を磨くとは云なり…」(一生成佛抄)

と仰せです。