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宗派を超えた・やさしいPC法話

続『世界にひとつだけの花』は、むずかしい

宇田紅

今回は、前回の問題をどう考えていけばいいのか、という話に入りましょう。

問題を起こさせている主たる原因と考えている事のひとつは、教育の問題です。

私達が教育として理解しているもののほとんどが目的としているのは何でしょうか?

今の教育は社会生活をする中で自分を評判のいい商品としてどれだけ仕上げられるか、という事が目的とされているのではないかと私には思えます。

今の教育では「他人に自分を商品としてどれだけ高く評価してもらえるか」という事にほとんどのエネルギーが費やされていて、「自分が何者で世界はどういうものか」という疑問を考えさせる時間がありません。何故なら、こうした疑問に向き合うことはすぐに他人から評価を得られるものではないからです。子どもの頃から、人の眼にはどう映っているのかが先に立って、自分自身として価値を感じることに対しては感覚を押し殺してしまっているのではないでしょうか。

極端な例ではありますが、画家のゴッホをとり上げてみたいと思います。

彼は生存中は社会の中に居場所があったとは言えず、数百枚描いた油絵で売れたものは生存中1点だけであり、弟に生活の面倒を見てもらいながら精神病院にも何度も入院する人生でした。社会からは評価されなかった絵を描き続けた人だったのです。ただし身近な弟夫婦だけには強い感銘を与え、彼らの努力でゴッホは死後皆さんがご存知のように世界に認められるようになりました。世間から認められるか否かに関わる事なく、ゴッホが描き続けて行く力や弟夫婦が信頼し支え続けて行くことの出来た力とは何だったのでしょう。それは一種名付け難い力に突き動かされたとしか言い様がないものでしょう。この一種名付け難い力こそが(イコールだとは言いませんが)本願力と同種類のものだと私は考えます。

つまり、仏教はこうした力を引き出そうとする教えなのだと思っているのです。ゴッホや弟夫婦のような天才は、例えて言うならば何もないような所から詩が書けるような人達であり、放っておいても自分達の個性を形に出来ますが、私達のような存在の場合は短歌や俳句のような定型を通してはじめて何とか形に出来るものでしょう。仏教という教えは、言ってみればその定型のようなものを与えていると考えて頂けたらいいのです。

ゴッホのような人達は一種の天才といった範疇に入れられてしまいますが、私達ひとりひとりが花を咲かせるということは、それぞれがその人なりの天才であらねばならない、という意味になるのではないかと思います。

それぞれがその人なりの天才であることを引き出して行くことこそが教育の本来の在り方であり、それが実現されて行けば「世界にひとつだけの花」がたくさん咲き誇る世界となるのでしょう。

                           合掌  

蓮ライン